オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

信仰によって生きる

2018-03-04 00:00:00 | 礼拝説教
2018年3月4日(日)主日礼拝(ヘブル11:1~12)岡田邦夫


「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」(ヘブル12:2)

 先週、こんな夢を見ました。山の手線の日暮里駅を降りて、山の手側の道を、子どものころ、通っていた小学校に向って、歩いているのです。これはパソコンのストリートビューで見た景色そのままです。ところが途中で建物の中の廊下を歩いており、そこは大聖堂の中らしいと思い、駅に引き返そうと建物を出ると迷って辺ぴなところに出てしまって、心配になったところで目が覚めた、という夢でした。どうして、このような夢を見たのか、すぐわかりました。説教の準備のためと思い、寝床でこのヘブル11章を読んで、どう話したらよいのかと悩み、プレッシャーがかかったまま、寝てしまったからだと思われます。
 それから、私の中ではこの章から色々教えられました。大事なのは「迷わず信仰によって生きる」ということだと示されたのでした。

◇信仰を色彩にたとえると…
 まずは基本です。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません」(11:6a)。主イエスは、あなたの信仰があなたを直したとか、このような信仰を見たことがないとか、信仰がないのはどうしたことか等と、何よりも信仰が大事なことだと告げています。それは「神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです」(11:6b)。その信仰とは、目に見えない、望んでいる事がらを確認し、確信することです(11:1要約)。
 クリスチャンは皆、この同じ信仰に立っています。「主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです」(エペソ4:5)。しかし、それぞれは信仰の色合いは多種多様です。「昔の人々はこの信仰によって称賛されました」と言って、信仰偉人伝のように物語っていきます(11:2)。
 豊中泉教会で英会話をしていた時に、イギリスから来ていた教師が良く言っていました。イギリスには雨がよく降り、緑がきれいなので、緑にも色々な名前の緑があるのだと英語で言っていました。そういえば、シャネル口紅を開発しているフランス人が最高の「赤」を求めて日本にやってくるというドキュメントの番組を見ました。京都で江戸時代から続く染屋を訪ねます。そこでは伝統的な植物染により日本古来の鮮やかな色文化を再現することに挑戦し続けています。そこで、紅色、桃色、桜色など、名前がついた50種類の赤を見せられ、ヨーロッパにない深みのある赤に出会い、そのフランス人は感動します。それは口紅などに使われていた「紅」です。これが乾くと光線の加減でわずかに金色に光るのです。この話は続きますがここまでにします。
 信仰は一つ、本質は同じですが、ここの信仰の色合いが違います。信じる個々が違うからです。11章を見ていきましょう。
アベルの信仰から始まり、エノク、ノアと進み、アブラハムの信仰に至ります。「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました」(11:8)。サラ、イサク、ヤコブの信仰の彩りをそえ、こう括ります。「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです」(11:13)。
 次に移ります。モーセの信仰は大輪のコスモスのよう、ラハブの信仰は野に咲く可憐なすみれのよう、同列に並べられています。そして、士師たち、預言者たちの信仰が描かれて行きます。この11章は旧約に生きた信仰者たちが厳しい現実のもとで、神に喜ばれる道を行き、目に見えない、望んでいる事がらを確認し、確信して、人生をかけたのです。それは一本の長い絵巻物のようです。
 ところで、私たちの信仰も色々な色合いがあるようです。何を求めて教会に来られたか、動機は色々で、真理を得たい、安心を得たい、生きがいを得たい、問題を解決したい、あるいは周囲が信仰者でその影響から、信仰を持ったので、信仰もその傾向、その色合いがあるのではないかと、私流に考えています。いずれにしても、それぞれの色合いが違うのですから、互いにその色を認め合い、「配色」の良い信仰者の群れにしていきたいものです。そして、先ほどの「紅」のように、お互いに信仰の色合いを深いものしていただき、御霊によって福音の光を輝かさせていただきたいものです。

◇信仰を競争にたとえると…
 この章の最後に、信仰者のつながりを明確に描いています。「この人々はみな、その信仰によってあかしされましたが、約束されたものは得ませんでした。神は私たちのために、さらにすぐれたものをあらかじめ用意しておられたので、彼らが私たちと別に全うされるということはなかったのです」(11:39-40)。駅伝レースのように、信仰のタスキを私たちは渡され、ゴールに向かって走っていくのです。私たちはアスリートなのです。しかも、神の国あげての応援があるのです。「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか」(12:1)。そして、これは個人戦というよりは団体戦です。
 この度の冬季オリンピックで話題になったものに、スピード・スケートでパショート(追い抜き)というのがありました。3人一組でスピードを競い合うものです。ところがアイススケートはアスリートだと自動車並みの時速40~50キロぐらいのスピードが出るので、風圧がものすごく、走るのに力がいります。しかし、その後ろにつくと風圧が無くなって、勝戦は日本とオランダでした。オランダ・チームは個々では早い選手3人をそろえてきましたが、日本チームは個の特性を生かしつつ、チームで走る練習を重ねてきたそうです。結果は日本が金メダルでした。個では負けていても、チームでやれば、個が個以上の力を発揮して勝ったというのを私たちは目撃しました。

 信仰の競争もパシュートのように団体戦で、チームワークが勝利の秘訣です。信仰は見えませんから、誰が先で誰が後かというようなことはわかりませんから、とにかく、励まし合っていくことです。向かい風をも受けましょうという気概、遅れていると思われる人への気遣いを持ちたいものです。
 何といっても先頭はイエス・キリストです。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい(「見つめながら」共同訳)。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました」(12:2)。あの「十字架のはずかしめ」の向かい風を全部受けられたのです。
後に続くペテロのために風よけになられたのです。「わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ福音書22:32)。その後、使徒たちは無学な普通の人達ですが、イエスから目を離さないで、チームで走りました。ですから、周囲からこう見られたのです。「彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た」(使徒4:13)。
 私たちもその後に続き、信仰の競争(馳場・はせば)を走っていきましょう。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました」(12:2)。
楽に走れるというものです。それで、三人縦に並んで滑り、上手く先頭を後退して走るわけです。そして、最後にゴールした選手のタイムが早い方が勝ちです。この度、女子の決