オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

星に導かれて

2016-12-11 17:02:58 | 礼拝説教
2016年12月11日(日) アドベント第3主日礼拝(マタイ福音書2:11~12)岡田邦夫

 「彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。」マタイ福音書2:9~10

 先週、イエス・キリストの降誕というのは普通ではないこと、それが普通の私たちの生きる場に入ってきたという話でした。救いということでいえば、降誕は歴史上、一度限りの最も重要な出来事です。ですから、そのみ告げにしるしが伴います。み使い、夢、星など…。今日は東方の博士たちを導いた星の話です。

◇導かれて…
 エルサレムに事件が起きていました。東方からきた博士たちがヘロデ王に謁見し、こう尋ねたのです。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました」(2:2)。
 博士たちというのは占星術の学者(共同訳)で、偉大な指導者が誕生するとき、新しい星が現れると信じていた人たちです。イスラエルに世界のために救い主が王として生まれるという預言の書を読んでいたのでしょう。それで星に導かれてやってきたのです。ヘロデ王はローマ元老院からユダヤの王に任じられたエドム人ですから、そのような王が現れるとは自分の身が危ない。恐れ惑いました。エルサレムの住民も動揺しました。ヘロデ王は祭司長、学者にどこに生まれるものなのか、聞き出します。後で、居場所を突き止め、生まれた子を抹殺してしまおうという下心なのです。
 ミカ書(5:2)にこうありますとの答。『ユダの地、ベツレヘム。あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さくはない。わたしの民イスラエルを治める支配者が、あなたから出るのだから』。ベツレヘムはパンの家という意味で、当時の人口500人ぐらいだったらしい、小さな町。どう、幼子を探し出すのか。東方で見た星がちゃんとナビをしてくれるのです。
 ヘロデ王はというと、気になる幼子の居場所を博士たちから得ようとしていたが、神が博士たちに夢で知らせ、真っすぐ帰ってしまったのです。それならと、ヘロデはベツレヘムと近辺の二歳以下の男の子を一人残らず、抹殺してしまいます。しかし、事前に神は夢で導き、ヨセフが幼子イエスとマリヤを連れられて、一時エジプトに避難して助かるのです。
 博士たちはというと、「すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった」。星の運行と地上のことが一致するという、何とも不思議な、アメイジングなことでした。その星を見て、まだ、幼子イエスにお会いしてはいないのに、その恵みに感じて「彼らはこの上もなく喜んだ」のです。アメイジング・グレイスです。そこはきらびやかな宮殿でも神殿でもない、質素な家です。しかし、彼らは敬虔な思いになっていました。「その家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた」のです。心からの喜びの礼拝をささげたのです。心満ち足りて、自分の国へ帰って行きました。
 博士たちは星というしるし、すなわち見える外的要因を通して、神に導かれて、幼子の救い主にお会いでき、礼拝を献げられたのです。皆さんも誰かに誘われて、教会に来たとか、何かで聖書をもらったとか、そういうことがきっかけで信仰に導かれたと思います。それぞれ、神に出会うまでの、そして、出会ってからの「導きストーリー」というものがあると思います。博士たちのは救い主「降誕」の証人としての導きストーリーでした。百人一首ではないですが、百人百様の導きストーリーがあるのです。あなたの導きストーリーは唯一かけがえのないものです。思いめぐらし、整理して書いてみてはどうですか。また、証詞する機会が与えられればと思います。

◇促されて…
 占星術の学者が不思議な星を見たとしても、それが救い主につながるという資料とがあったとしても、救い主に会いに行こうという魂への促しがなければ、また、その促しに従っていく思いがなければ、東の国からやっては来なかったでしょう。引っ張られるような、押し出されるような促しに従ったからこそ、ベツレヘムにたどり着けたし、救い主に会えたのです。ヘロデはどうでしたか。権力の座が奪われるのではないかという恐れに惑わされて、幼児虐殺に走ってしまいました。良心の声に従わなかったのです。ヘロデになるまじ。
 博士たちは星が救い主の居場所はここだと示した時、促しに従ったからこそ、「彼らはこの上もなく喜んだ」のです。内側からあふれる喜びがあったのです。もう、そこで神に出会っているのです。ですから、幼子の前に額を床につけてひれ伏したのです。神から最高のものをいただいたので、最高の宝物を喜んでお献げしたのです。恵みを受けることで満たされますが、献げることでも大いに魂は満たされるものです。内的促しは内的満たしへと導かれるのです。

 今日は私の導きストーリーをお聞きいただければと思います。小学6年の時に引っ越しをしたので、クラスメイトとは会うこともなく中学生活を送っていた。高校の入学試験の会場に、左の3つ目くらいの後ろに、何と小学校の同級生、A君がいた。合格して、授業が始まったら、偶然、彼も同じクラスだった。工業化学の学校なのに、彼は文学好きで、ロシア語とエスペラント語を独学で学ぶような人だった。もう一人、万葉集が好きだというB君、波長が合うのか二人は友達になっていた。B君と私、通学コースが一緒で親しくなり、全くの理系の私、自分にないものに惹かれ、影響され友達になる。それで、読んだことのない西洋文学をかじり、ロシア語にも触れてみた。
 また、3年のある日、通学途中、都電に乗ろうとしたら、目の前でチラシを配っていた。いつもならとらないのだが、その時はきれいな青のチケット風だったので、つい受け取ってしまった。教室につくとC君が「これ、いる奴いねーか?」とそのブルーのものを振り回していた。誰も取らない。結局B君がもらった。これを手にしたのは偶然、私とB君だけだった。キリスト教の音楽と講演のチラシだった。西洋のものを読むと、必ず聖書や教会が出てくるので、二人は興味本位でその大会に行った。それで、なぜか別々な教会を紹介されたので、それぞれが通ってみた。求めがあったB君は在学中に受洗したが、私はまだだった。
 就職試験で、私はS社を受け、内定した。B君は別の社を受けたが駄目だったので、二次募集の社を受け、内定した。相談したわけではなかったのに、偶然にも同じ社の研究室に入社したのである。仕事も余暇も楽しかったが、魂は空虚、将来は不安、求める気持ちが膨らんでいた時、彼から社内電話で教会の特別集会の誘いを受けた。行ってみたら、講師は牧師らしくない型破りな庶民的な話をするのである。私にはそれが良かった。こんな人でもクリスチャンでいいなら、私でもなれるという不思議な思いになったからでる。その時、強い促しを感じた。神を信じようと…。教会の青年に導かれて、神を信じてこなかった罪を告白し、身代わりに十字架にかかられたイエス・キリストを信じますとお祈りをした。「しかし、彼を受け入れた者、すなわち、その名を信じた人々には、神の子となる力を与えたのである」のみ言葉が心に入った(ヨハネ1:12)。急に嬉しくなった。心の空洞に主イエスが来られ、私は神の子にされた。罪赦されて、最後の審判でもみ前に立てるのだと信じられた。すると魂に平安がきたのだ。
 一言でいえば、イエス・キリストと出会えたのです。偶然起こったように見えたことも、決して偶然ではなく、主のみ手がのばされて導かれたというのが後でわかりました。内側にも導きの霊が働いていました。促しです。自分の思いや意思で決めたようでも、神が促して、神を求めさせてくれたのです。外側の導きは摂理の導き、内側の導きは聖霊の導きといえましょう。三位の神が総力あげて、私を、あなたを導いておられるのです。ですから、何よりも安心です。博士たちとともに主に導かれたことを喜び、霊の良きものを献げ、礼拝の民として生きてまいりましょう。

◇さらに促され、導かれて…
 信仰者といえども、地上にある限り、不安になることも、疑うことも、虚しくなることもあります。だからこそ、「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか」(ヘブル12:2口語訳、「創始者」新改訳)です。そうして、私たちが促され、最後に導かれるところは永遠のエルサレム、新天地です。黙示録7:17に約束されています。「御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです」。