オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

美しきキリスト

2016-12-25 22:26:17 | 礼拝説教
2016年12月25日 クリスマス礼拝(ルカ福音書2:8-14)岡田邦夫

 「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」ルカ福音書2:11-12

 お子さんが来られることを考えて、仕掛けを作って影絵をしました。元の影絵本はヤン・イエンコフスキーという人のクリスマス物語で、大変きれいなので、使わせていただきました。美しいものには心ひかれるものがあります。それでは聖書から「美」のお話しをいたしましょう。

◇時々を美しく
 聖書の最初のページを開きますと、神が天と地のありとあらゆるものを造られたことが書かれています。そして、最後に神はこう言われました。「そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった」(創世記)。世界と人の出来栄えは非常に良かったのです。言い換ええば、非常に美しく造られたのです。人は外見で美人だとか、内面を見て性格美人だとか、そうでないとか評したりしますが、神からご覧になると、誰もが総合的に美人なのです。私のように髪が少なくなってきても美人らしい。たとえ私が認知症になってもきっと美しいらしい。誰もが「存在美人」なのだと言えましょう。
 次に知恵の書にはこうあります。「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。…」と詩が綴られていき、このように締めくくられます。「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた」(伝道者の書)。誕生から臨終まで、新緑も紅葉も美しいようにその時々が美しい、順調の時も逆境の時も、時にかなって美しい、神のなさることだからです。時における美です。
 ところが、私たちは「時における美」が分からななってしまって、心配してしまうのです。イエスは人生を心配するなと言います(マタイ福音書から要約します)。空の鳥を見よ。天の父がそれを養っていている。それ以上にあなた方への心配りをして養ってくださっているではないか。野の花がどうして育つのか見よ。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいなかった。まして、あなた方の命(人生)を美しく装ってくださるのだから心配するな。天の父が時に応じて養い、時にかなって美しくしてくださるだから、神に任せて生き、神の国や永遠の神をまず第一に求めよ、それを優先させよと告げています。

◇永遠に美しく
 ところが人は自らを醜くしてしまっているのが現実ではないでしょうか。争いがあり、憎しみや妬みやいじめ等々、それらが本来の美しさを台無しにしてしまっているのです。神の目から見ると自己中心の罪で汚れてしまってるのです。
 例えば、テーブルに醤油をこぼしたとします。きれいな台布きんで汚れをふき取ります。台の汚れが布きんに移ったわけで、布きんの汚れは水で洗って水に移して流すというわけです。人の罪の汚れも同様です。全く罪の汚れのない方でなければ、決してぬぐうことはできません。ですから、全く罪のない神の御子が天から遣わされたのです。汚れの隅々にまで届かなければなりませんから、御子はマリヤを通して生まれ、人となられたのです。それが象徴するように、生まれたのは汚い家畜小屋の中、寝かされたのは飼い葉おけの上でした。ただし、全く罪のない、清らかな、美しいキリスト(救い主)として誕生されたのです。
 救い主は十字架において、私たちの汚れ、罪を一切をぬぐうように、その身に引き受けて、死んでくださいました。その汚れを死滅させたのです。その使命を果たし、復活し、天に帰られました。私たちは悔い改めて、それを信じるだけで罪の汚れがぬぐわれ、きよめられ、救われ、本来の美・魂の輝きを回復する道が開かれたのです。天国は神のお気に入りの永遠に美しいところ、神を素直に信じる人が行けるのです。そして、永遠に美しく栄光に輝くのです。それは聖書の約束です。
 御子イエスを心に迎え、今を美しく、やがて、御国で永遠に美しく、神と共に生きる存在でありましょう。