オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

聖霊によりて

2016-12-04 16:42:07 | 礼拝説教
2016年12月4日(日) アドベント第2主日礼拝(マタイ福音書1:18~25)岡田邦夫

 「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」マタイ福音書1:21~22

 私が洗礼を受けた柴又教会に一人の年配の婦人が祈られている祈りが何とも心を打つもので、忘れられません。神への呼びかけが「主さま…」と普通使わない言葉なので、違和感を覚えていました。
 十戒には「あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない」があります(出エジプト20:7)。イスラエル人は「みだりに唱えてはならない」を文字通り重視しました。聖書のヘブル語文字はほぼ子音で記されていて、読むときは文章の流れから、母音を付けて読みます。「主」は英語的に書くと、YHWH。彼らはみだりに唱えないことを徹底させ、そのところを朗読する時はあえて「アドナイ」と読みかえていました。長年、そうしているうちに元の読み方がわからなくなってしまいました。今日“ヤハウェ”が元に近い読み方とされています。日本語ではわかりやすく「主」と翻訳しています。お名前ですから、敬虔に「主さま…」とお呼びするのは普通そういう言い方をしませんが、その方にとって、最高の言い方だったのだと思います。

◇普通の中に普通でないものが
 新約聖書の最初、アブラハムからの系図があって、「ヤコブにマリヤの夫ヨセフが生まれた。キリストと呼ばれるイエスはこのマリヤからお生まれになった」と記されていきます(1:16)。ここまでなら、普通の人の誕生です。家系図からいうとヨセフの子で、血液からいうとマリヤの子、という普通の人としてイエスはお生まれになったのだと言えます。
 しかし、普通ではない誕生、唯一特別な誕生、すなわち「降誕」だったことが記されていきます。「イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった」(1:18)。原因と結果で考えるなら、処女降誕は受け止めがたい事でしょう。夫婦の営みという原因があって子供が生まれるという結果になる。他の原因で子供は生まれるはずはないと。しかし、私たちの経験や常識を超えて、天からの「聖霊によって」乙女マリヤは身重になったのです。とても普通でないことが起きたのです。
 ここで、歴史の見方や人生の取り組み方を聖書から学んでみたいと思います。マタイ福音書は繰り返し、「…成就するためだった」と逐一述べています。まず、神の預言があって、それが現実に救いの出来事になっていくという歴史の展開です。預言と成就、言いかえれば、目的と達成です。生まれつきの盲人を見て弟子がイエスに尋ねます。この人の盲目は親のせいなのか、本人のせいなのか、この盲目という結果はどこに原因があるのかというわけです。イエスの答えはこうです。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです」(ヨハネ9:3)。因果応報ではなく、人はだれでも、神のわざが現わされるという目的をもって命を与えられたのだというのです。ある心理学者は言います(アドラー)。人は原因によって後ろから押されて生きるのではなく、(目的をもって)目標を設定しそれを追求するものである。
 罪を犯して神から離れている人類を、神がみもとに帰すという目的で、み使いを通して、ヨセフとマリヤに伝え、「聖霊による」という特別な方法で、救い主を誕生させました。ヨセフはみ告げを受けました。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」。人類を救うという目的のため、わざわざ、特別、聖霊なる神が直接介入されたのです。これは人類史上、最大のニュースなのです。

 このすべての出来事は、主が預言者イザヤを通して言われた「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」のみ言葉が成就するためでした(イザヤ7:14)。神の大いなるご目的が果たされるためでした。それは機械的に予定をこなすというようなものではありません。強い思いがあってこそ、目的を持ち、実行されていったのだと想像するのです。先週、ケセン語訳聖書を紹介しましたが、私にとっては目からうろこでしたので、もう少し、言わせていただきます(山浦玄嗣医師による気仙沼の方言訳、ヨハネ福音書1:1~2、10)。
 「初めに在ったのァ 神様の思いだった。思いが神様の胸に在った。 その思いごそァ神様そのもの。初めの初めに神様の 胸の内に在ったもの。神様の 思いが凝(こご)って人どなり この人の世に在りやった。人の世ァ神様の 思いによってなったのに、この世ァそれェ認識(わが)んながった」。
 初めの初めに神の胸の内に在った「思い」が凝縮して、神の御子が人となって、世に来られたのです。そのみ思いにあふれた聖霊によって、御子イエスが誕生されたのです。歴史上かつてない降誕という、尋常でない御業をなさったのは、人類を、そして、あなたを救いたいという、神のあふれるばかりのみ思いの現れでした。私たちへのほんとうのクリスマス・プレゼントは神のみ思いのあふれた御子ご自身なのです。ですから、その神のみ思いを信仰の大手を広げていただきましょう。

◇普通でないものが普通の中に
 その信仰の手を広げるのも、聖霊によるのです。「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です。』と言うことはできません。」なのです(1コリント12:3)。聖霊によると、だれも「イエスは主です。」と告白することが出来るのです。聖霊は私たちの思いを導かれます。行いにおいても思いにおいても、自分がいかに神に背き、神にも人にも罪深いものであるかを思わせてくれます。そのすべての私の罪がイエス・キリストの十字架において贖われ、罪赦され、ためらうことなく、神の前に立てると信じさせていただき、魂の平安が与えられるのです。そして、心おきなく祈り、神と交わらせていただき、やがての裁きに日にも、み前に立てると確信させてくれます。
 この救いに導く言葉が1章23節にある神の言葉です。「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である)。救われた者のこれ以上はない祝福は、神が私たちと共におられるということです。やがての日、顔と顔を合わせてまみえるでしょう。しかし、聖霊が下った今は、主が私たちの人生の場、生活
の場に降りて来られ、何があっても、世の終わりまで、共にいてくださるのです。普通の生活の中にあなたを思う主がおいでくださるのです。
 神が共にいてくださることをどう実感しますか。ドイツのある方から送られてきた自作のデモテープにも歌われていましたし、映画やテレビドラマなどに使われています、ユー・レイズ・ミー・アップ(You Raise me up)をもう一度、紹介したいと思います。人気のある歌で「You=あなた」を「神」と思って歌うと賛美歌になります。普通の生活の中に、神共にいます・インマヌエルを感じ取っていきたいと思います。それが聖霊の感動につながればと思います。
  私が落ち込んで、弱り切っているときに
  困難にぶつかって、心が折れそうなときに
  私は静かにここで待っています
  あなたが来て、私のそばに座ってくれるのを
   あなたが私を立ち上がらせてくれるから、山の上にたつことができる
   あなたが私を立ち上がらせてくれるから、嵐の海を歩くこともできる
   あなたの肩に寄りかかっていれば、私は強くなれる
   あなたは、私ができる以上にもっと強く立ち上がらせてくれる
    When I am down and, oh my soul, so weary;
    When troubles come and my heart burdened be;
    Then, I am still and wait here in the silence,
    Until you come and sit awhile with me.
      You raise me up, so I can stand on mountains;
      You raise me up, to walk on stormy seas;
      I am strong, when I am on your shoulders;
      You raise me up: To more than I can be.
 十字架の贖いによって、また、聖霊の導きによって、み名をみだりに唱えてはならないというほど、聖にして尊いお方が私たちの普通の生活の中に、普通におられるのです。いつでも「主さま」と呼びましょうか。山坂ある人生でユー・レイズ・ミー・アップを歌いましょうか。日常の中にインマヌエルです。神に思われ、神を思う特別なことが普通の生活に溶け込んでいきますなら、これ以上の幸いはありません。