オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

わたしの民がたくさん

2015-02-15 00:00:00 | 礼拝説教
2015年2月15日 主日礼拝(使徒の働き18:1-11)岡田邦夫


 「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから。」使徒18:9-10

 日本と欧米の文化の違いによくでてくるのはノコギリとカンナです。日本のノコギリもカンナも引いて使いますが、欧米のは押して使います。その例にみるように、日本人はよその文化を自分の方に引いてこようとするが、欧米人は自分の文化をよそに広めようとするのだと比較する文化人類学者がいます。ですから、日本ほど世界中のパンがある国はないというのもそのせいでしょう。
 パウロが小アジアの西の端で、マケドニア人の叫びの幻を見て、エーゲ海を渡って第二次伝道旅行を進めます。マケドニア、アカヤ、ギリシャへと伝道の足をのばしていきます。イエス・キリストの福音を受け入れる人もでてきますが、文化の衝突もありました。「この者たちはユダヤ人でありまして、私たちの町をかき乱し、ローマ人である私たちが、採用も実行もしてはならない風習を宣伝しております」(使徒16:20-21)。そういう衝突の中で、渇いていた人たちがおり、ピリピにも、テサロニケにも、コリントにも信者が増え、教会(家の教会)が出来ていきます。

◇知識人にも
 ついにギリシャまでやってきた時、哲学の町アテネ、そして、商業の町コリントに乗り込みます。それぞれの文化にあわせて、パウロたちは福音をのべ伝えます。アテネにはエピクロス派とかストア派とが哲学論争をしていました。どちらも心の平安を求めるのですが、前者は自然的な快楽を肯定し、運命など過剰な不安や恐れを避け、平安を得ようとします。後者は宇宙と個人を結びつけ、その運命を受け入れ、禁欲的に生活し、平安を得ようとします。
 この人たちが「あなたの語っているその新しい教えがどんなものであるのか、知らせていただけませんか」と求められたので、パウロは「アテネの人たち。」と言って、語り出します(17:22-31)。おびただしい偶像の中に「知られない神」と刻まれた祭壇を見つけ、知らずの拝んでいる神こそ、真の神であること、その神が天地を造り、人を造り、国や境を定めたこと、一人の人が神から遣わされ、死んで復活したことを話します。だから、偶像礼拝をただし、悔い改めるようにと勧めます。優れた伝道メッセージでした。しかし、霊魂不滅を信じ、復活など意味がないと思っている人たちだったので、あざ笑われることになりました。しかし、信仰に入った人たちもおりました。
 後にパウロはローマ人への手紙で大いなる確信を持ってこう述べています(1:14、16)。「私は、ギリシヤ人にも未開人(ギリシャ語を話せない人)にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています」。「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です」。

◇放縦人にも
 アテネの次にコリントに行きます。そこは東西貿易の港のあるところで、商業の発達した町でした。そのため、経済的に繁栄し、様々な人種、文化が混じり、大きな神殿とそれにともなう売春がありました。「コリントのように振る舞う」と言うと、放埒(ほうらつ)、放縦、不品行を行うという意味で使われるほど、道徳的に乱れていたのです。まずはパウロ、イタリヤから来た夫婦の家で天幕作りをしながら、伝道します。伝道チームのシラスとテモテがやって来たので、パウロは伝道に専念します。ここでも、ユダヤ人の反抗にあい、会堂管理者の家に引っ越します。会堂管理者クリスポは、一家をあげて主を信じます。また、多くのコリント人も聞いて信じ、バプテスマを受けるのです。そのような時でした。ある夜、主は幻によってパウロに告げました。そこでパウロは、一年半ここに腰を据えて、彼らの間で神のことばを教え続けたのです。
 「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから」(18:9-10)。
 T夫妻が新居浜から大阪に転勤で越して来ました。T姉が宝塚の社宅で、その庭に落ちた枯れ葉を一所に集め、置いておきました。時が過ぎたある日、その枯れ葉を見ると黒くなっていました。それを見た時に、この町の人々が滅んでいくと思うと胸が熱くなり、涙しました。その時、「この町には、わたしの民がたくさんいる」とのみ言葉が与えられました。お隣にW夫妻も同じように引っ越してこられていたので、宝塚にホーリネスの教会が出来るようにとW姉と祈り会を続けました。家庭集会を開けば、救われる人も起こされていきました。後に今の宝塚泉教会が出来ていったのです。実にお言葉の通りなのでした。この三田においてもそう確信します。「この町には、わたしの民がたくさんいる」。
 ところで、コリントは放縦の文化でしたから、コリントの教会にも、色々な問題が生じました。そこで、後にパウロはそれに対して、コリント人への手紙を書きました。それは単に問題対処なのではなく、分派、不品行、訴訟、結婚、離婚、偶像、賜物等々の問題に対して、キリストの福音の光を当てました。そして、十字架と復活の福音を明らかにし、聖餐などの重要な聖礼典を書き記します。第一と第二を合わせて29章という新約聖書で一番章数の多い、聖書となります。コリントという文化都市に問題が多いからこそ、福音の神髄(しんずい)を語り続けたのだと思います。問題を感じれば感じるほど、私たちもこのみ言葉を聞き、信じて、進んでいきたいと思います。
 「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから」(18:9-10)。