オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

救いを物語る

2015-02-22 00:00:00 | 礼拝説教
2015年2月22日 伝道礼拝(ヨハネ福音書9:25)岡田邦夫


 「ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」ヨハネ福音書9:25

 小さな子どもはお話が大好きです。絵本を読んでとせみます。寝る前にお話してとせがみます。気に入ったものは何度でも要求してきます。人は物語によって成長していくのでしょう。物語を通して、大人から子どもへ文化の継承がなされていくのでしょう。子どもだけではなく、大人もそうです。物語は人間や社会を形成していく上で大事な位置をしめているのです。
 広いくくりで言えば、周りは物語りにあふれています。小説、漫画、映画、アニメ、演劇、歌舞伎、TVドラマ、対談と様々。恋愛もの、サスペンスもの、時代もの、風刺もの、ホームドラマもの、戦争もの、スポーツものと色々です。それらが人の心を豊かにし、人の生き方とつながっていくわけです。ですから、良い物語りに出会うことが重要なのです。
 その点で、聖書は全体として、天地創造から、新天新地に至る歴史(預言を含む)なのですが、物語りの形で記されています。史実の羅列ではなく、読む者、聞く者に、「ものを語っている」歴史なのです。パウロは13通の手紙を残していますが、自分は最も小さい者だとか、罪人の頭(かしら)だとか、そのような者がキリストによって救われ、、使徒となったとか、随所で自らを物語っています。

◇これがわたしの物語
 さて、ヨハネ福音書9章の盲人の物語りを見てみましょう。教えられること、我が身にあてはめられるものがある物語です(9:1-7)。
“またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」
 イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。”
 この話は続きます。肉体の目は見えるようになった奇跡ですが、心の目が開かれていく話です。この日が安息日で、ユダヤの律法では仕事をしてはいけない、医療行為さえも禁じられていました。そうなるとイエスがなさったことは盲人を救ったのですが、律法違反になるとパリサイ人が追求していくわけです(9:14)。しかし、目の開いたこの人は物語ります。「あの方が罪人かどうか、私は知りません。ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです」(9:25)。尋問の中で「盲目に生まれついた者の目をあけた者があるなどとは、昔から聞いたこともありません。もしあの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできないはずです。」とあの方のことを語ります(9:32ー33)。
 そして、イエス・キリストは再会してくださり、この人は「主よ。私は信じます」と信仰の告白をして、救いの物語を完結するのです。
 私たちは自分の人生を振り返り、それを物語ることが重要です。それが生きてきた証しだからです。それが神に出会って、幸いでした、目が開かれましたという物語であれば、それは傑作なのではないでしょうか。

◇これがわたしの賛美
 救いの物語は神への感謝、神賛美となるのです。「アメイジング・グレイス」はこのごろ、良く聞きます。キリスト教と関係のない歌手も歌いますし、追悼の時にしばしば、この聖歌が歌われます。結婚式でもこの曲が流れます。特にアメリカでは第二の国家と呼ばれるほど親しまれています。
 この作詞者のジョン・ニュートン(John Newton、1725年 - 1807年)は、イギリスの海軍兵士から奴隷商人を経て牧師となった人物です。
 (ネットの文章をそのまま、ここに載せますがご了承下さい。なお、なお詳しい伝記はファイルしたものがあります。また、BSで放映された特集のDVDもあります。お望みの方にお貸しします。歌詞は最後に載せます。)
 船員の父と熱心なクリスチャンの母の間にロンドンで生まれる。1732年6歳で母親を亡くす。1733年に父親が再婚。1742年11歳の時に父と共に地中海に最初の航海に出て、船乗りとなる。1742年に当時14歳のメアリー・キャットリットに初めて会う。1744年に軍艦ハリッジ号に普通船員として強制的に徴募される。1745年に軍艦ハリッジ号から奴隷貿易商船の船員へ交換される。1741年より、奴隷貿易に従事。
 1748年、22歳の時、自分の乗った船が暴風のため難破しかけた。この時、母の死後初めて神に祈り、奇跡的に遭難を免れたことで回心し、生活態度を改める。1750年24歳でメアリー・キャットリットと結婚する。その後、その後6年間アーガイル公爵号(the Duke of Argyle)という奴隷船の船長になり、奴隷をシオラレオネから西インド諸島のアンティグアに運んだ。さらに、アフリカ号(The Africa)で船長として二度目の奴隷貿易に従事する。
 1755年30歳で奴隷貿易の仕事を辞めリヴァプールの関税職員になる。ロンドンでジョージ・ホウィットフィールド、ジョン・ウェスレーと関わり、影響を受け牧師になるための勉強を始める。1758年チェスターの主教がニュートンの英国聖公会の聖職叙任を拒否する。1764年にダートマス伯爵がニュートンの後援者になり、ダートマス伯爵の紹介で1764年38歳でオウルニィの副牧師職になる。1764年39歳で『物語』を発表する。1767年42歳の時にうつ病の静養のために移住してきたウィリアム・クーパーと未亡人のメアリー・アンウィンに出会い友達になる。オウルニィへ引っ越すことを勧める。1769年より、グレートハウスで毎週の祈りの集会を始める。クーパーと共にこの集会のために讃美歌を書き始める。1773年クーパーが精神に異常をきたしニュートン宅に8ヶ月同居する。1779年に『オウルニィの讃美歌集』という讃美歌集を出版した。この中に後に有名になる『アメイジング・グレイス』が収録された。その年、ロンドンのセント・メアリー・ウルノス教会に教区牧師として赴任する。その頃から、奴隷貿易反対運動に関わる。1785年にウィリアム・ウィルバーフォース下院議員の相談に乗る。下院議員を辞めて、聖職者になりたいというウィルバーフォースの希望を断念させ、福音主義の議員の立場から奴隷貿易反対をすべきであると忠告する。 1790年にニュートンの妻メアリー・キャトリットが癌で死去する、姪で養女のベツィ・エリザベス・キャトリットが家事を行う。1801年ベツィが神経失調のために入院する。1802年ベツィが回復する。1807年81歳の時、英国国会法で奴隷貿易の廃止が決定される。1807年82歳でニュートンが死去する。亡骸は、セント・メアリー・ウルノス教会の地下納骨所に妻と共に埋葬される。現在、地下鉄工事のためにオウルニィの町に改葬された。
 ジョン・ニュートンの救いの物語はアメイジング・グレイスに結集されています。私たちも、それと重ねて、この聖歌をもって、神賛美を致しましょう。
新聖歌233番
1.おどろくばかりの めぐみなりき この身のけがれを 知れるわれに
2.めぐみはわが身の おそれを消し まかする心を おこさせたり
3.危険をもわなをも 避けえたるは めぐみのみわざと 言うほかなし
4.御国(みくに)につく朝 いよよ高く めぐみのみ神を たたえまつらん