オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

ダビデとヨナタンの友情

2010-07-18 00:00:00 | 礼拝説教
2010年7月18日 主日礼拝(1サムエル記18:1~20:42)岡田邦夫:みのお泉教会にて


 「世には友らしい見せかけの友がある、しかし兄弟よりもたのもしい友もある」(箴言18:24口語訳)。

 NHK教育テレビに「ピタゴラスイッチ」という子供たちの考え方を育てる番組があり、その中に登場する「ピタゴラ装置」が私は好きです。身の回りにある定規などでさまざまな、からくり装置を組合せ、そこをビー玉などが転がってゆき、最後はピタゴラスイッチという題名を示すというものです。

◇友情のスイッチ
 人生にはスイッチが入る時があります。少年ダビデがペリシテの巨人ゴリアテを倒した時も、きっと、彼の戦いのスイッチが入って、臨んだのでしょう。そのダビデを将軍アブネルがサウル王のもとに連れてきた時のことです。
「ダビデがサウルと語り終えたとき、ヨナタンの心はダビデの心に結びついた。ヨナタンは、自分と同じほどにダビデを愛した。…ヨナタンは、自分と同じほどにダビデを愛したので、ダビデと契約を結んだ。ヨナタンは、着ていた上着を脱いで、それをダビデに与え、自分のよろいかぶと、さらに剣、弓、帯までも彼に与えた。」と記されています(18:1、3、4)。サウル王の息子・ヨナタンの心にダビデへの「友情」という心のスイッチが入ったのでしょう。それは理屈ではないものです。人生には大なり小なり「友」に出会うことがあるのです。きっと、人生をよりよいものにするための神からの贈り物なのでしょう。「世には友らしい見せかけの友がある、しかし兄弟よりもたのもしい友もある」(箴言18:24口語訳)。
 それから、ダビデは戦士の長として、サウル王のもとで、活躍します。凱旋するのを迎える女たちが踊って、「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」と歌う程でした。

◇憎悪のスイッチ
 その日以来、サウルはダビデを疑いの目で見るようになり、ついに、「その翌日、神からの悪い霊がサウルに激しく下り、彼は家の中で狂いわめいた。」のです(18:10)。憎悪という心のスイッチが入ってしまったのです。サウルの心を静めるために琴を弾いていたダビデに、いきなり、王が槍を投げつけたのです。ダビデはすばやく身をかわし、難を逃れました。それでも、ダビデの行く所、どこでも勝利でした。
 今度は、「サウルの娘ミカルがダビデを愛した」のです(18:20)。恋愛のスイッチが入ったわけです。サウルはこれを利用して、ダビデを葬り去ろうと企てます。「サウルは言った。『ダビデにこう言うがよい。王は花嫁料を望んではいない。ただ王の敵に復讐するため、ペリシテ人の陽の皮百だけを望んでいる、と。』サウルは、ダビデをペリシテ人の手で倒そうと考えていた」(18:25)。わずかな部下をつれて、敵の百人を倒すなど、できるわけがありません。しかし、ダビデは部下と出て行き、倍の二百人のペリシテ人を打ち殺し、陽の皮を王の前に持ち帰り、婿となる条件を果たしました。王はやむなく、娘ミカルを妻として、ダビデに与えることになったのです。

 ダビデが戦果ををあげるので、サウル王はますますダビデを恐れることになりました。「サウルは、ダビデを殺すことを、息子ヨナタンや家来の全部に告げた。しかし、サウルの子ヨナタンはダビデを非常に愛していた」(19:1)。王が重要な家来を殺そうというのですから、最悪の事態です。ヨナタンは板挟み。王を説得します。ダビデに対して、罪を犯さないように、彼のしたことは王にとって有益だったし、彼が命をかけて敵と戦い、主が勝利を与えられたのだから、罪のない者の血を流してはならない…と。サウルはそれを聞きいれ、おさまります。
 しかし、またペリシテとの戦いが起こり、ダビデが敵に大損害を与えれば、殺意のスイッチがはいって、琴を弾くダビデを槍で壁に突き刺そうとします。ダビデは逃げ、難を逃れます。妻ミカルがこの状況を察して、窓からつり下ろし、ダビデを逃がします。それから、ダビデはヨナタンにこっそり会いに来ました(20章)。新月祭で王といっしょに食事をしなければならないことがあるからです。ここで熱い友情の言葉がかわされます。食事に行かないことに気付き、王が怒っているかどうか、殺意があるかどうか、ヨナタンが暗黙の内に知らせるということになりました。新月祭の日が来て、王はダビデが来ていないことに気付き、殺意がありありであることをヨナタンは知って、弓矢のいり方でダビデにだけそのことを伝えます。ダビデは隠れたまま出てきません。ヨナタンに命を助けられたのです。ダビデは南側のほうから出て来て、地にひれ伏し、三度礼をした。ふたりは口づけして、抱き合って泣き、ダビデはいっそう激しく泣いた。ヨナタンはダビデに言った。「では、安心して行きなさい。私たちふたりは、『主が、私とあなた、また、私の子孫とあなたの子孫との間の永遠の証人です。』と言って、主の御名によって誓ったのです。」こうしてダビデは立ち去った。ヨナタンは町へ帰って行った。…20:41-42。実に素晴らしい友情です。

◇救済のスイッチ
 イエス・キリストは友情を高く評価して言われました。「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません」(ヨハネ福音書15:13)。そして、友情のような、それを越えた主との関係をこう言われました。「わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です」(同15:14)。そして、主ご自身が私たちを滅びから救おうという、愛のスイッチが入って、十字架でいのちを捨ててくださいました。「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです」(ローマ5:7ー9)。神の愛のスイッチは入りっぱなしなのです。