オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

「泉のほとりの」

2010-07-04 00:00:00 | 礼拝説教
2010年7月4日 四泉合同礼拝・於宝塚泉教会(創世記49:22-26)岡田邦夫


 「ヨセフは実を結ぶ若木、泉のほとりの実を結ぶ若木。その枝は、かきねを越えるであろう。」創世記49:22

 豊中泉、宝塚泉、みのお泉、三田泉の4教会が合同礼拝をしますのは、元をたどっていくと同根の群であり、株分けされた教会がその後も、祈り、協力し合ってきたからです。神田ホーリネス教会で受洗し、結婚して豊中に来ていた方が、豊中にホーリネス教会がほしいとの祈りに導かれ、家庭集会を開き、人が集まってきたので、1956年7月8日、豊中使徒教会が設立されました。それがそもそもの始まりでした。1980年9月、豊中使徒教会が土地を購入して、移転を予定していたのが、株分けの形に変えられ、株分けされた教会が、豊中泉教会でした。それが4泉教会になっていく第一歩でした。その当時の牧師に後任の私が「泉と名付けた聖句は何ですか?」と聞きましたら、聖書には泉がたくさん出てくるからだとだけ言われました。それではと、祈り、与えられたみ言葉が、創世記49:22の「ヨセフは実を結ぶ若木、泉のほとりの実を結ぶ若木。その枝は、かきねを越えるであろう。」でした。そして、教会はそのみ言葉のように実を結んできたのです。

◇全能の神による
 このみ言葉はヤコブが臨終の時に、12人の子どもたちを祝福した言葉の一つです。ヨセフは下から二番目の子で、父の寵愛(ちようあい)を受け、しかも、夢見る人で、その夢が兄たちを怒らせるものでした。兄たちは弟ヨセフを野で殺そうとしますが、通りかかった商人に売り渡してしまいます。そして、エジプトのポテパルの奴隷となります。よく働くのですが、また、あらぬ恨みを買い、投獄され、もはや、日の目を見ることはないかと思われました。しかし、囚人の見た奇妙な夢を解き、やがて、エジプト王パロの見たたいへん奇妙な夢を王の前で解くことになりました。夢見る人は夢解く人でもありました。ヨセフの賢さを見込み、王は彼を総理大臣に任じ、そのことでエジプトは危機から救われることになります。
 やがて、飢饉(ききん)がやってきて、兄たちが食料を買いにエジプトに来た時、ヨセフと再会します。しかし、彼がまさか総理大臣になっているとは思わないので、ひれ伏します。ヨセフは色々手を使って、兄たちが自分を売り渡したことを悔いていることを確かめ、和解し、ヤコブ一家を安全なエジプトに迎えたのです。始めに神が見させた夢の通りになりました。
 それがこの言葉に表現されています。「射る者は彼を激しく攻め、彼を射、彼をいたく悩ました。しかし彼の弓はなお強く、彼の腕は素早い」(49:23ー24)。しかし、それはヨセフをたたえているのではなく、神を誉め称えているのです。「これはヤコブの全能者の手により、イスラエルの岩なる牧者の名により、あなたを助ける父の神により」と(49:25、平行法という強調の表現)。私たちの群も祝されているのは、ひとえに「これはヤコブの全能者の手により、イスラエルの岩なる牧者の名により、あなたを助ける父の神によ」るのです。

◇祝福の神による
 なお、そのお方は祝福の神なのです。さかのぼりますと、神が人を創造された時のことです。「神は彼らを祝福して言われた、『生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ』。」(創世記1:28)。しかし、人は神に背き、罪を犯し、祝福を失いました。そこで、アブラハムを選び、彼と彼の子孫を救い、祝福の約束をされました。「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基(もとい)となるであろう」。私たちは信仰によるアブラハムの子孫であり、この祝福をイエス・キリストによって継ぐ者です(ガラテヤ3:9参照)。
 49章に戻りましょう。「上なる天の祝福、下に横たわる淵の祝福、乳ぶさと胎の祝福をもって、あなたを恵まれる全能者による。」とあり、「あなたの父の祝福は永遠の山の祝福にまさり、永久の丘の賜物にまさる。」とありますから、何とも素晴らしいことです。何か心が躍ってきそうです。その祝福が私たちの上にのぞむのです。「これらの祝福はヨセフのかしらに帰し、その兄弟たちの君たる者の頭の頂に帰する」(49:26)。最高の祝福はイエス・キリストによって、私たちにもたらされました。それはイエス・キリストの福音です。「これは、祝福に満ちた神の栄光の福音が示すところであって、わたしはこの福音をゆだねられているのである」(1テモテ1:11)。

 豊中泉教会が株分けされた年(1980年)、私たちは愛媛県の壬生川教会に遣わされて7年目、祈っていますと、「向こう岸へ渡ろう」、「新田を耕せ」のみ言葉が示され、開拓伝道の使命が与えられ、教団委員会に申し出ました(マルコ4:35、ホセア10:12 )。翌年、遣わされた教会は豊中泉教会、開拓の教会ではありませんでした。しかし、豊中泉教会主催の宝塚での家庭集会に行きましたら、同じ愛媛県の新居浜教会から、先に転勤で二家族がこちらに来られ、宝塚の社宅におられたのです。すると、「先生、宝塚にホーリネス教会がほしい。」と言うのです。その時、私の中で「新田を耕せ。」とはこのことだと、御霊に示されました。
 話を聞きますとこうです。その中の一人の姉妹が社宅の庭の枯れ葉をはき集め、しばらく日が過ぎて、その枯れ葉の山が黒くなっていました。それを見た時に、聖霊が示したのでしょう。宝塚の魂が滅んでいく光景に見えて、涙していると、「この町には、わたしの民が大ぜいいる。」のみ言葉が与えられました(使徒18:10)。そして、家庭集会を続け、ホーリネス教会が必要と祈り会をして、ずっと祈っていたのでした。そうして、見えない神のみ手に操られて、私たちは宝塚というところで出会ったような気がします。豊中泉教会が宝塚開拓を打ち出すとすぐに、宝塚泉教会のある、ここの土地が寄付され、はじめはプレハブでを建て、一期工事、二期工事をへて、伝道牧会が進められてきました。また、みのお泉教会も三田泉教会もできて、今ここで合同礼拝をするまで至っています。
 これは決して、誰かの計画で出来てきたことではなく、「上なる天の祝福、下に横たわる淵の祝福、乳ぶさと胎の祝福をもって、あなたを恵まれる全能者による」のであります。祝福する父なる神、イエス・キリストの神、聖霊の神によるのです。ここにおられる私たち、みんなが御手の中で用いられただけです。しかし、神によるのですから、何にも代え難い祝福です。その祝福に私たちは与っているのです。

◇「泉のほとりに」
 ヨセフの祝福の源は「泉のほとり」でした。神の恵みの泉がいつもそばにあったのです。聖書では、一番苦しい時にこそ、そうだったことが記されています。「主がヨセフと共におられたので、彼は幸運な者となり、その主人エジプトびとの家におった。その主人は主が彼とともにおられることと、主が彼の手のすることをすべて栄えさせられるのを見た。…主はヨセフのゆえにそのエジプトびとの家を恵まれたので、主の恵みは彼の家とうくh畑とにあるすべての持ち物に及んだ。」(39:2-5)。「主はヨセフと共におられて彼にいつくしみを垂れ、獄屋番の恵みをうけさせられた。… 獄屋番は彼の手にゆだねた事はいっさい顧みなかった。主がヨセフと共におられたからである。主は彼のなす事を栄えさせられた」(39:21-3)。
 主がヨセフと共におられたのでと繰り返しています。祝福される父、子、聖霊の三一の神が共におられるなら、必ず、祝福されるのです。主が共におられるなら、だいじょうぶなのです。その時に、苦しくて見えないこともありますが、後に祝福が見えて来るものです。そして、最後には栄光の内に現れる再臨のイエス・キリストにより、永遠の祝福にあずかるのです。どうぞ、私たちはイエス・キリストの泉のほとりにおりましょう。イエス・キリストの泉のほとりから流れてくるのは、イエスの血潮です。十字架の血潮は私たちの罪をすべて洗い流す祝福です。血は命。キリストの血潮は私たちに永遠の命を与える祝福です。十字架の上で注ぎ出された血潮は私たちを憐れみ、愛の限りをつくされたイエス・キリストの祝福です。どうぞ、私たちはイエス・キリストの泉のほとりにおり続けましょう。