オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

タビデとゴリアテとサウル

2010-07-11 00:00:00 | 礼拝説教
2010年7月11日 主日礼拝(1サムエル記17:1~58)岡田邦夫


 「この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ。主はお前たちをわれわれの手に渡される。」1サムエル17:47

 2010 FIFA ワールドカップでイビチャ・オシム氏が日本代表チームについて、こうコメントしていました。「カメルーンは巨人ゴリアテで、日本は小人ダビデだった。~本田が(うぬぼれて)ゴリアテになってしまったら、彼と日本の未来にとって悲しいこと」だと(6月15日)。キリスト教国ならではの発言です。そのタビデとゴリアテ(ゴリヤテ)の戦いは今日の聖書にでてくるものです。

◇ダビデとゴリヤテの対比
 巨人ゴリヤテを少年ダビデが倒すというこの物語は痛快な話です。ペリシテ人が軍隊を召集してエフェス・ダミムに陣を敷き、それを迎え撃つイスラエル人はエラの谷に陣を敷き、「ペリシテ人は向こう側の山の上に、イスラエル人はこちら側の山の上に、谷を隔てて相対した。」のが始まりです(1サムエル17:3)。ペリシテ側はひとりの代表戦士を出して、一騎打ちをさせようとイスラエル側に提案します。それはペリシテ側の戦術。背の高さ、6キュビト半=286センチの巨人ゴリヤテを戦士に持っていたからです。青銅のかぶと、57キロのうろことじのよろい、青銅のすねあて、7キロの鉄の穂先のある青銅の投げ槍…という重装備、盾持ちが先を歩くというような、しかも、軍事訓練を受けた、巨大戦士ゴリヤテ、それには誰をも圧倒してしまうものがありました。戦う前から、戦意を失わせる威圧感を持っていました。そのゴリヤテが40日間、朝と夕に現れてはイスラエル陣営を脅し、一騎打ちをしろと挑発します。それを聞き、イスラエル側は戦おうとする者もなく、すっかり意気消沈してしまいます。
 そこに若きダビデがやってくるのです。彼はベツレヘムに住み、父はエッサイと言い、父のもとで羊飼いをしており、八兄弟の末っ子、その兄弟の内、上の三人はサウル王に従い、この戦列に加わっていました。ダビデは父から、兄たちに食料を届け、安否を調べて来るように頼まれて、この戦場に来ました。そこに例のゴリヤテが現れ、イスラエル人を脅かす光景を見ます。ダビデは憤慨します。「このペリシテ人を打って、イスラエルのそしりをすすぐ者には、どうされるのですか。この割礼を受けていないペリシテ人は何者ですか。生ける神の陣をなぶるとは」(17:26)。兄が身の程知らずといさめ、怒りますが、ダビデの言動がサウル王の耳に入り、召し出されます。ダビデは羊飼いの経験から、羊を守るため、主に助けられ、獅子(しし)や熊を打ち殺した経験があるから、あのペリシテ人から、主が必ず、救ってくださるに違いないと申し出ます。
 ダビデはよろいも着ず、槍も持たず、羊飼いの「杖を手に取り、川から五つのなめらかな石を選んできて、それを羊飼いの使う袋、投石袋に入れ、石投げを手にして、あのペリシテ人に近づいた。」のです(17:40)。両者が近づきます。ゴリヤテが見おろせば、ダビデは若くて、紅顔の美少年、彼をさげすんで、自分の神々によってダビデをのろいました。ドスのきいた声が響きわたったことでありましょう。しかし、ダビデは少しも臆することなく、立ち向かいます。「きょう、主はおまえを私の手に渡される。私はおまえを打って、おまえの頭を胴体から離し、きょう、ペリシテ人の陣営のしかばねを、空の鳥、地の獣に与える。すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るであろう。この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ。主はおまえたちをわれわれの手に渡される。」(17:46-47)。
 ゴリヤテが近づくと、ダビデは走って行き、石投げに一つ石を入れ、ゴリヤテ目がけて放つと、みごと、額に命中、石は額に食い込み、ゴリヤテは気を失い、前に倒れ込み、うつぶせになったのです。ダビデは走りより相手の剣を抜き、とどめをさしました。一瞬の出来事でした。すると、ペリシテ人は恐れて逃げ、イスラエル人は奮い立ち、追撃し、圧勝しました。

◇ダビデとサウルの対比
 ダビデの勝利の秘訣は何でしょう。①経験を生かしたことです。羊を守るために獅子(しし)や熊を打ち殺した羊飼いの経験を応用して、獣を巨人に変えて、のぞんだわけです。②チャンスを生かしたことです。ダビデはサウル王の道具持ち、王を慰める立琴奏者でしたが、この時、武勇をたてるチャンスがきたわけです。③若さを生かしました。無謀ともいえる戦いにいどむことが出来たのも、失うものもあまりない若さにあったのでしょう。
 しかし、聖書では「この戦いは主の戦い」であり、「イスラエルの陣営の神、万軍の主」が戦われ、勝利したのだと告げています(17:47)。主が剣や槍を使わずに民を救うことを他の国々に知らせるために、羊飼いの少年ダビデを用いたのです。サムエル記は主に用いられるか、退けられるか、その明白な対比が記されています。この戦いの前に、サウル王に対して、サムエルが宣告を下していました。「見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた」(15:22-23)。

 そして、彼に代わる王を主は選ばれました。主に導かれ、サムエルがエッサイの家を訪ねた時、「人はうわべを見るが、主は心を見る。」と告げられ、八人の兄弟がいる中で、一番下のダビデを主が指名しました。ダビデの心、すなわち、主の声に聞き従う心を見られたのです。彼は羊飼いです。羊飼いは自分の羊の名を呼び、彼の羊は自分の羊飼いの声を聞き分けて、ついていくのだとイエスが教えられたように(ヨハネ福音書10章)、ダビデは従順な羊の心を持っていました。また、きっと、神の民という羊の群のために、命をかけるという、牧者の心が芽生えていたに違いありません。
 そして、王となる、御前での任職式が行われました。「主は仰せられた。『さあ、この者に油をそそげ。この者がそれだ。』サムエルは油の角を取り、兄弟たちの真中で彼に油をそそいだ。主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った」のです(16:13)。聖霊が注がれたのです。聖霊の受信者、受容者となったのです。その日以来、彼を突き動かし、支えたのはその聖霊なるお方だったのです。それと対照的なのがサウル王。「主の霊はサウルを離れ、主からの悪い霊が彼をおびえさせた」(16:14)。新約の時代、イエス・キリストを通して、私たちには聖霊が注がれているはずです。私たちも聖霊に突き動かされ、支えられていきましょう。「主の霊が私を離れ、悪い霊が私をおびえさせ」ということがありませんように。もしそうなったら、イエス・キリストの前に出て、本来あるべき従順な羊の心にしていただき、他者を思いやる牧者の心を良い羊飼いイエスからいただきましょう。そして、ゴリヤテのような敵、それは圧倒されるような問題でしょうか、世のこと、サタンの迫りでしょうか、それに向かって、「この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ。主はお前たちをわれわれの手に渡される。」と聖霊により、信仰を持って立ち向かいましょう(1サムエル17:47)。そうすれば、私たちの小さな石つぶての祈りも、問題の巨人の急所を一撃するに違いありません。この戦いは主の戦いだからです。