オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

よい羊飼いのイエスさま

2010-02-21 00:00:00 | 礼拝説教
2010年2月21日 CS礼拝(ヨハネ福音書10:1~18)岡田邦夫


 「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」 ヨハネ福音書10:11

 「迷」という漢字があります。左側のしんにょうは道をあらわします。右側は「米」で、真ん中から八つの方に道がのびてるような字です。真ん中から、道がたくさんあって、どの道を行ったらいいのか、わからなくて、まよっているというような漢字ですね。きょう、お話しする「羊」というのは道に迷いやすい、迷子になりやすのです。どっちにいったら、草や水があるのか、どっちにいったら自分の家に帰れるのか、どっちに行ったら危険なのか、安全なのか、よくわからないのです。羊はよく迷子になるのです。
 イエスさまは、人間は迷子の羊のようだと言いました。神さまから勝手に離れて、神さまの所に帰る道も、天国にいく道も見つけられないで、迷子になってしまっているのです。でも、迷子の羊の所に羊飼いがきてくれれば、迷わないで、帰れますね。
 ちょっと、ことばの遊びをしてみましょう。ブログの方は文字がずれてしまうので修正を




  ま よ い や す い
わ し く き
い な う る

 横に読んで、それから縦に読んでいきましょう。羊である私たちは、「まよいやし」です。また、つらいことや、誘惑や、死ぬことなどに「よわい」ですね。でも、良い「ひつじかい」であるイエス・キリストさまが来てくだされば、私たちのことを「やしなう」ことができ、「すくう」ことができ、そして、永遠のいのちに「いきる」ことができるのです。ブログの方は文字がずれてしまうので修正を。
 でも、私たち羊のところに、「ひつじかい」イエスさまがいないと、
  ま よ い や す い
わ じ け ね じ
い け に る わ
る な る

いじけたり、やけになったり、すねたり、いじわるになったりするのです。

 でも、注意しましょう。良くない羊飼いがいるのです。良くない教えを説く人です。良さそうに見えて、羊を救ってくれない羊飼いです。良い教えを言っているようでも、神さまの所にも、天国にも連れて行ってはくれない人です。それはオオカミが襲ってきても弱い羊を助けてくれませし、羊をおいて逃げていってしまうようものです。
 安心してください。イエス・キリストさまは「わたしは良い羊飼いである。」とおっしゃってくださいました。ほんとうに良い羊飼いなのです。悪魔というオオカミが襲ってきても、羊飼いの杖で追い払ったり、戦ってくれたりして、私たち羊たちを守ってくださいます。
 さらにイエスさまはこう言われました。「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」。良い羊飼いのイエスさまは、羊の私たちを救うために、命を捨ててくださるほど、愛してくださったのです。
「羊」という字の下のほうに「苦」しいという字を重ねてみましょう。ブログは重ならない


真ん中の「十」のところを取ってみましょう。すると「善」という字になります。「良い羊飼い」を昔の聖書では「善き牧者」と書いて、よきひつじかいと読んでいました。罪と死と滅びというオオカミから私たち羊を救うために、羊の身代わりになって、「苦」しみを羊にかわって受けて、「十」字架にかかり、死んでくださいました。そして、復活されて、永遠の命を私たち羊に与えてくださり、ほんとうに救ってくださったのです。

 ウェンディという女性の話をしましょう。1981年8月、キャンプから帰る山道で、車と車が衝突して、60メートル下の谷底におちてしまいました。ガソリンがもれて爆発し、火の海になってしまいました。ウェンディさんはやっとのことで、窓からはい出しました。でも、からだの半分以上やけどをし、背骨も折れてしまいました。
 救急車がくるまで、とても時間がかかったのですが、頭がぼんやりしてきたのですが、ウェンディさんの耳元でだれかが歌ってくれたのです。
  主われを愛す。主はつよければ、われ弱くとも、恐れはあらじ。
  わが主イエス、わが主イエス、わが主イエス、われを愛す。
 でも、救急車が着いた時、そばには誰もいなかったと救急隊員が話していました。不思議なことです。お医者さんががんばってくれたので、背骨も、やけども治っていきました。体と顔にやけどの痕が残りました。それはとても心に深い傷になりました。でも、良い羊飼いであるイエスさまを知り、心が楽になりました。ウェンディさんはこう言いました。
  「これは私がイエスさまの大切な羊だという印なの。」
 そのようにして、ウェンディは体も、心も良い羊飼いイエス・キリストに助けられたのです。
「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ福音書10:11)。