オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

私は、あなたを罰しない

2010-02-07 00:00:00 | 礼拝説教
2010年2月7日 主日礼拝(ヨハネ福音書8:1~12)  岡田邦夫


 「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」ヨハネ福音書8:11

 列車のダイヤ改正などで、運行表を作る人たちをスジ屋と呼んでいます。運行表は横が時刻、縦が駅名のグラフで、一列車ごとに斜めにスジを引いて作成していくからです。牛田貢平という人が「プロフェッショナル・仕事の流儀」というNHKの番組で取り上げられていました。彼によって、東京の地下鉄・東西線が朝のラッシュ時の慢性的な遅れが半分以下になり、客からの苦情も10分の1に減ったというやり手です。その仕事は600本の線を引くだけでなく、乗務員のシフトや他社の車両の乗り入れなどの交渉もしなければなりません。それで、スジ屋の彼は自分の流儀をこう言います。「サラリーマンはスジを通せ」と。筋を通すというのは大切なことですが、時には変な筋を通そうとして、やっかいなことになることもあります。

◇悪の筋書き
そのやっかいなことがエルサレムの神殿で、イエスが教え始めた時に起こりました。聖書にはこう書いてあります。「すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕えられたひとりの女を連れて来て、真中に置いてから、イエスに言った。『先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。』」(8:3ー5)。そのような現場を押さえて、その女性を多くの人の集まっている神殿に連れてくるというのは何とも乱暴な話です。また、彼らがイエスを告発する理由を得るために、この女性を利用してやろうというひどい話でした。
 もし、イエスが姦淫は罪、モーセの律法の示すように罰せなけばならない、それが筋だと言えば、民衆はイエスは愛のない人だと受けとめ、離れて行ってしまうでしょう。また、イエスが愛をもって、赦しなさいと言えば、モーセの律法に反することを教えているとして、当局に告発し、抹殺してしまうことができます。どちらを答えてもおとしめられる彼らのワナであり、悪の筋書きでした。

◇イエスの筋書き
 しかし、イエスは絶妙な対応をなさいます。まず、周囲の人たちは姦淫を犯したという彼女に興味の目がいっていたでしょう。そして、この問いかけにどう答えるのかということでイエスに興味の目がいっていたでしょう。視線は両者に向けられていました。そこで、イエスは身をかがめて、指で地面に何かを書き始めました。すると周囲はどうして何も答えず、身をかがめたのか、何を書いているのか、そちらに感心がいくわけです。彼女が何をしたのかという興味が薄れて、イエスご自身の方に興味が集中していくわけです。それで、彼らが問い続けてやめなかったのです。
 ここで、イエスはメッセージをされます。身を起こして「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」と言われ、もう一度身をかがめて、地面に書かれたのです(8:7-8)。イエスに対する関心事を、彼ら自身の心に向けさせたのです。ほんとうに人を裁くことができるのは神だけですし、また、罪のない者だけです。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」と良心に問いかけたのです。これが神の前の人間の筋道(道理)です。その筋道を通そうとされるイエスの流儀なのです。

 1994年6月27日に長野県松本市で、猛毒のサリンが散布され、死者を含む多数の被害者を出した事件がありました。その時にサリン被害者でもある無実の人が第一通報者であることから容疑者とされ、マスコミには犯人扱いされて報道されました。そして、1995年3月20日に更に多くの死者と被害者を出した東京都の地下鉄サリン事件が起きて、カルト新興宗教団体のオウム真理教が起こしたしたことが判明されました。事件そのものが恐ろしいことでしたが、無実の人が何の証拠のないまま、容疑者とされ、犯人扱いされ報道されてしまったことはもう一つの恐ろしいことでした。これは、この聖書の場面でいうならば、女性の周りを取り囲み、手に石を持って投げようとしたことに相当します。松本の事件では実際に無実の人に、犯人だと言って石を投げてしまったのではないでしょうか。それは決して他人事ではありません。主イエスは私たちに告げるのです。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」と。
 そもそも、女性を連れてきたこと自体がおかしな話だと思われます。モーセの書(レビ記20:10-19、申命記22:22-30)によれば、姦通罪は男女共に処罰されるか、男性だけが有罪とされるかで、女性だけ処罰されるということは記されていません。それが死刑に処せられる場合は、二人ないし三人の証言を必要とするとあり、死刑の執行に当たっては、まず証人が手を下し、次に民が全員手を下すとなっています。
 それで、どうなったのでしょうか。「彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。」と記録されています(8:9)。だれも、手に石を持つ者はいなかったのです。心の中に石を持とうとしたのですが、石をおいたのでしょう。人生経験から感じる所があっったのでしょうか、年長者たちから去っていったのです。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」という言葉はまさに、賢者の言葉です。

◇福音の筋書き
 皆が去って、ここで話は終わりません。その後のことに、主イエスの主イエスであるところのメッセージがあるのです。イエスは身を起こして、その女性と話します(8:10ー11)。
 「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」
 「だれもいません。」
 「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」
 イエス・キリストは単に誰も罪に定めないから、それでよしとするような仕方で安易に赦されたのではありません。人を罪に定めることできる方で、人を罪に定めなければならない義なる方です。義なる方として、父の御前に筋を通さなければなりません。彼女の姦淫罪の処罰を、ご自分が代わって、十字架において、御前で受けられたからこそ、神の義が貫かれ、彼女の罪を赦す神の愛が貫かれたのです。それが救い主イエス・キリストの義と愛の筋道なのです。この姦淫の女は私であり、あなたです。
 ローマ人への手紙を開いてみましょう。「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」(ローマ8:1)。「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです」(ローマ8:33ー34 )。イエス・キリストは十字架で贖いをなしとげ、死んでよみがえり、神の右にあげられたことを通して、天に対しても、地に対しても、父なる神に対しても、サタンに対しても、愛と義の筋道を通され、私たちを完全で確かな救いに導いてくださったのです。
 その意味で、今日のみ言葉を心に聴きましょう。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」(ヨハネ福音書8:11)。