オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

今はよく見える

2010-02-14 00:00:00 | 礼拝説教
2010年2月14日 主日礼拝(ヨハネ福音書9:1~41) 岡田邦夫


 「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」ヨハネ福音書9:3

 生まれつきのもので、ここぞという時にそれが役に立ったという話です。使徒パウロが伝道旅行の三度目に、主に示されてエルサレムに行きましたところ、キリスト教に反対するユダヤ教徒たちによって、町が大騒動になりました。それはローマ軍を出動させるほどでした。そのため、彼は捕らえられますが、その時、生粋のヘブル人だったので、ヘブル語で群衆に証詞ができました。また、生まれながらにローマ市民という特権を持っていたので(使徒22:28)、裁判を受けるために、行きたいと望んでいたローマに行くこととなりました。これは使徒としての特別な使命のためでした。

◇生まれつきなので、変えられないもの
 しかし、人には生まれつきのもので、マイナスと見える、どうにもならないものがあります。それさえなければいいのに思えることがあります。ここにでてきます生まれつきの盲人がそうです。まず、その盲人をイエスは道の途中でご覧になりました。盲人は生活のため物ごいをしていたのでしょう。イエスは一人の人格として、あわれみの眼差しでご覧になったことでしょう。しかし、弟子たちは気の毒だと思いながら、世間一般の感覚で、イエスに尋ねます。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか」。この人は不幸だ、それには原因があるのではないか、何かのせい、誰かのせいにしようとする因果応報の考えです。当事者には何とも残酷な質問です。因果応報論は旧約聖書の試練にあったヨブをさんざん苦しめたものです。それを克服していった経緯はヨブ記をお読みください。
 しかし、イエス・キリストは一刀両断、それを切り捨てます。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません」(9:3)。決して虚言ではなく、真性の神の言葉です。人は神に造られた者です。造った方の目的があるのです。イエス・キリストは創造者として、告げます。「神のわざがこの人に現われるためです」(9:3)。それはすべての人に告げる言葉です。人の生きる目的は誰もが、神のみわざを現すことなのです。

 スウェーデンで、一人の女の子が両腕がなく、左脚が右脚の半分の長さしかないという障害を持って生まれました。3歳で水泳教室に通い始め、やがて、1988年ソウル・パラリンピックへの出場しましたが、91年からゴスペル・シンガーとして活動を始め、多くの人々に愛と希望のメッセージを伝え、感動を与え続けています。彼女の名はレーナ・マリア・クリングヴァル。愛と希望と感動を与えているわけはこうです。彼女の母アンナさんの祈りでした。「神さまは何らかの目的をもってこの障害をゆるされたのだと思いました。ですから、この障害を用いてください。どうぞ助けて用いてくださいといつも祈らされたのです」。また、レーナさん自身の信仰の生き方です。「神さまは、きっと何か特別なご計画があって、私をこのように造られたのだと思います」。
 レーナ・マリアさんのように、生まれつきの変えられないものと向き合っていくことはそう簡単なことではありません。そこで、ラインホルト・ニーバーの詩、「祈り」のように、祈っていきたいものです。
   変えることのできないものに対しては、
   それを受け入れるだけの冷静さを、
   変えることのできるものに対しては、
   それを変えるだけの勇気を、
   そして、変えることのできないものと、
   変えることのできるものとを見分ける知恵をわたしに与えて下さい
 また、生まれつきの変えられない自分を、瞬き(まばたき)の詩人・水野源三さんの詩、「生きる」のように、素朴に思って生きるのもよいでしょう。
   神様の 大きな御手の中で
   かたつむりは かたつむりらしく歩み
   蛍草は蛍草らしく咲き
   雨蛙は 雨蛙らしく鳴き
   神様の 大きな御手の中で
   私は私らしく生きる

◇生まれつきでも、変えられるもの
 それから、イエスはこの生まれつき盲人の目を開くという奇跡を行われます。この奇跡というのはイエスが神の子であるということを証しする「しるし」です。イエス・キリストは世の光として、世に遣わされてきました。ご自身の死という夜がくる前に、遣わされている昼の間に、遣わした父なる神のわざを行なわなければなりませんと話されます。私たちは誰もが霊的に生まれつき盲人なのです。神のことも、罪のことも、霊的なことはいっさい見えないのです。これこそ、変えようにも変えられない現実です。しかし、イエス・キリストは私たちが見えるようになるために、世に遣わされたのです。変えられないものを変えるために来られたのです。
 そして、創造の時に土のちりで人を形造りられたように、イエスは「地面につばきをして、そのつばきで泥を作られ、その泥を盲人の目に塗」りました(9:6)。それは再創造の「わざ」です。主は「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」と命じます(9:7)。そこで、彼は行って、洗いますと、見えるようになって、帰って行ったのです。シロアムは父である神から遣わされたイエス・キリストご自身の象徴です。十字架において、贖いをなしとげられ、血と水を流されました(19:34)、その血と水によって、霊の目が洗いきよめられ、開かれるのです。罪のことも、神のことも、救いのことも、霊的なことも見えてくるのです。
 この目の開かれた人はパリサイ人の前で、こう断言しました。「生れつき盲人であった者の目をあけた人があるということは、世界が始まって以来、聞いたことがありません」(9:32口語訳)。霊の目が開かれるとはそれほどのことなのです。「アメージング・グレース」を歌いたいですね。特に4行目です。直訳も載せておきましょう。
Amazing grace how sweet the sound 驚くほどの恵み、なんとやさしい響きか
That saved a wretch like me. 私のような罪深き者も、救われた
I once was lost but now am found, かつて私は失われ、いま見出された
Was blind but now I see. 盲目だったが、今は見える

 この奇跡のなされたのが安息日。安息日はいっさいの仕事をしてはならない日です。医療行為もです。イエスの行為は律法違反になるとして、パリサイ人が当人と両親を追求します。そして、彼を会堂の外に追い出してしまいます。その彼をイエスが見つけ出します。そして、彼は開かれた目で救い主イエスにしっかりと出会い、信じて、真に救われました。そして、真の礼拝をいたしました(9:38)。これこそが、真に変えられた姿です。さらに、イエスはパリサイ人に向かって言われました。「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある」(9:41口語訳)。偽善ぶりを痛烈に批判しました。ですから、私たちは目が開かれたこの人のように証ししましょう。神の国が見えるように大きく生まれ変わったのですから(3:3)。
 「ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです」(9:25)。
 新聖歌353の歌詞をかみしめて、賛美しましょう(2節)。
  かつては罪のため 心は曇りて
迷いしが今は目も 全く開きたり
  われ知るかつては 目見えざりしが
  目を開かれ 神をほむ 今はかくも