オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

向かう先には何がある

2009-09-13 00:00:00 | 礼拝説教
2009年9月13日 主日礼拝(民数記14:1~10)岡田邦夫


 「もし、私たちが主の御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さるだろう。あの地には、乳と蜜とが流れている。」民数記14:8

 目の前にチャンスがありながら、ためらっために、遠回りしなければならなかったということは、皆さんの人生の中でありませんでしたか。そのようなことがイスラエルの民が約束の地を目の前にして、いよいよこれからという時、起きたのです。カデシュ・バルネアでの歴史的事件です。
 右手でチョキを出して見てください。握っているところが紅海で、中指の方と人差し指の方に入り組んでいます。中指の左に広がるエジプトから、奴隷だったイスラエルが脱出してきたのです。中指の先あたりの海を渡り、指の間の三角のシナイ半島を進み、指の付け根の尖(とが)ったところにあるシナイ山で、神からの十戒が与えられました。人差し指の内側に沿って、指先の上に広がるパランの荒野を進み、カデシュ・バルネアというところまで来ました。このまま、北北東に進んでいけば、約束の地、カナンがそこにあるのです。

◇約束の地に向かって
 そこで、主はモーセに命じました。わたしがイスラエル人に与えようとしているカナンの地を12部族の族長を遣わして探らせなさい。そこの住民は強いか、弱いか、土地は良いか、悪いか、町は宿営か、城壁か、土は肥えているか、やせているかを調べてきなさい。…というものでした(民数記13:1-20要約)。この12人の偵察隊はカナン地方を40日かけて探って帰って来ました。ぶどうのふさの着いた枝を2人でかつぎ、ざくろやいちじくもたずさえてきたのを見せ、モーセとアロンとイスラエル全会衆の前で報告の時が設けられました(13:26)。
 ここで、どう報告されるかで、これからの方針が決まります。運命の分かれ道。12人はそろって、「そこにはまことに乳と蜜が流れています。そしてこれがそこのくだものです。」と言います(13:27、14:8)。乳と蜜が流れる地、豊(ほう)潤(じゆん)の地であると主が言われていたことを自分たちの目で見て、確信したのです。
 その後、10人は「しかし、その地に住む民は力強く、その町々は城壁を持ち、非常に大きく、そのうえ、私たちはそこでアナクの子孫等々…を見ました。…私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強いから。…私たちがそこで見た民はみな、背の高い者たちだ。私たちには自分がいなごのように見えたし、…」とたいへん消極的で否定的な報告をしました(13:28-33)。
 これを聞いた全会衆は大声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かしました。モーセとアロンにつぶやきました。「私たちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに。できれば、この荒野で死んだほうがましだ。なぜ主は、私たちをこの地に導いて来て、剣で倒そうとされるのか。私たちの妻子は、さらわれてしまうのに。エジプトに帰ったほうが、私たちにとって良くはないか」(14:2-3)。エジプトに帰ろうとも言い出すのです。
 他の2人、ヨシュアとカレブは「もし、私たちが主の御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さるだろう。主にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。…私たちは上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」と信仰にもとずいて主張をします(14:8,9,13:30)。しかし、全会衆は耳を傾けず、2人を石で打ち殺そうとする始末です。

◇荒野に向きを変えて
 状況を侮って、やみくもに突き進んでいくというような無謀な行為は良くありません。しかし、神の約束を信じて進もうとしているので、決して無謀ではありません。逆に10人の族長と全会衆の方は、自分で判断していることが無謀でしょう。神の救いの恵みを忘れ、神の約束を信じないのです。神を侮っているのです。主はモーセに告げます。「この民はいつまでわたしを侮るのか。わたしがこの民の間で行なったすべてのしるしにもかかわらず、いつまでわたしを信じないのか。 わたしは疫病で彼らを打って滅ぼしてしまい、あなたを彼らよりも大いなる強い国民にしよう」(14:11-12)。
 滅ぼされてはたまらない、モーセは必死になって民のためにとりなしをし、「あなたがこの民をエジプトから今に至るまで赦してくださったように、どうかこの民の咎をあなたの大きな恵みによって赦してください。」と嘆願します(14:19)。主はそのとりなしの祈りに答えます。「わたしはあなたのことばどおりに赦そう」(14:20)。実に寛大であります。しかし、処罰がなされました。「その地をひどく悪く言いふらした者たちは、主の前に、疫病で死んだ。しかし、かの地を探りに行った者のうち、ヌンの子ヨシュアと、エフネの子カレブは生き残った。」と記録されています(14:37ー38)。
 まっすぐに、向かっていったら、どんなに困難でも、道が開け、乳と密の流れる地を得ることができたかも知れないのです。しかし、神を侮り、神の声に従がわない結果、神の導きが大きく変わりました。「低地にはアマレク人とカナン人が住んでいるので、あなたがたは、あす、向きを変えて葦の海の道を通り、荒野へ出発せよ」(14:25)。向きを変えて、荒野に逆戻りです。大きく迂(う)回(かい)して、回り道して行けと言うのです。
 罪(つみ)咎(とが)の刈り取りの処罰はこうです。探索が40日だったので、1日を1年と数え、40年の間、背信の罪を負い、荒野をさまよい、荒野で死にたえ、約束の地には入れないというものです。旧約ですから、厳しいです。ただし、荒野で生まれた子供たちとヨシュアとカレブはカナンの地に入れるという希望は残されました。

◇御顔をまっすぐ向けられ
 私たちはイスラエルの侮りを非難できるでしょうか。神の御心にそって、困難があり、苦難があり、大山があっても、まっすぐ、信仰に突き進んで行けるでしょうか。向きを変えて、大回りする可能性がないと言えるでしょうか。しかし、旅の同伴者でいますイエス・キリストがおられます。ルカ福音書には「さて、天に上げられる日が近づいて来たころ、イエスは、エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐ向けられ」たと記されています(9:51)。
 主は私たちの罪を贖うために、多くの苦しみを受け、十字架にかかり、私たちの罪を赦すために、エルサレムに向かわれました。死んで葬られ、よみがえり、天に上げられ、救いを成しとげるために、エルサレムに向かわれました。イエスは父の御心にそって、ひたすら、エルサレムに向かって旅をしました。「御顔をまっすぐ向けられ」ていました。神にまったく従順で、まっすぐ向いて進んで行きました。そして、天に上げられ、私たちが天という約束の地に行ける道を開いてくださいました。その方は今、私たちの旅の同伴者です。天のエルサレムに行こうと御顔をまっすぐ向けられ、私たちの荒野の旅に同伴していてくださいます。あなたが向きを変えることのないように付いていてくださるではありませんか。