オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

一歩を踏み出す勇気

2009-09-20 00:00:00 | 礼拝説教
2009年9月20日 主日礼拝(ヨシュア記1:1~9)岡田邦夫・宝塚泉教会にて



 「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」ヨシュア1:9

 「人間の小さな一歩だが、人類にとって大いなる飛躍だ」と言ったのは、月面に降り立ったアームストロング船長の言葉です。アポロ11号で人類が初めて月面に足跡を残した時のこと、当時は多くの人がテレビを見て感動したものです。さらに、宇宙計画で命を失った5人の宇宙飛行士のための記念碑が、月面に置かれました。「地球から来た人類がここに初めて足跡をしるす。西暦1969年7月。すべての人類のため、われわれは平和のうちに来た」と刻まれているそうです。人跡未踏※の地球外惑星に踏みいれた瞬間でした(※人の跡、未だ踏んでいない)。

◇足に備えを…信仰
 エジプトを出て、荒野を40年さまよってきたイスラエル人にとって、まだ、踏みいったことのないカナンの地に踏み込んでいく瞬間がやってきました。主のしもべモーセが死んで後、主はモーセの従者、ヨシュアに告げました。「今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている」(1:2ー3)。さらに、そのカナンの領土の広さも示されます。約束の地、カナンは足の裏で踏んでいって、手にすることができるというのです。
 私たちにとってのカナンは「約束されている御国」です(ヤコブ2:5)。ですから、私たちは新聖歌516にあるような御国を慕う歌を歌います。
  ヨルダンの彼方に 広がれるは げにわが譲りの カナンの地なり
  心は躍るよ 心は躍るよ カナンの地思うだに わが胸躍るよ
 そして、遙かなる御国を望みながら、目の前にある、まだ踏み入っていない信仰の領域に踏み出していくのです。「善を行って苦しみを受け、しかもそれを耐え忍んでいるとすれば、これこそ神によみせられること(喜ばれること)である。 あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである」(1ペテロ2:20-21口語訳)。善を行って苦しみを受け、御足の跡を踏み従う道に進むのです。
また、遙かなる御国を望みながら、目の前にある、まだ踏み入っていない宣教の領域に踏み出していくのです。「私がアジヤに足を踏み入れた最初の日から」というパウロの言葉にみられるように(使徒20:18)、私たちは「未だ見ぬ地 開く使命 尽きぬ感謝 ささげ奉り 信仰抱き進まん…宣(のべ)べ伝えよや 全(まつた)き福音」と歌いつつ(新聖歌436)、未伝の地に踏み込んでいきたいと思います。
 そうして、約束されている信仰の領域や宣教の領域を、実際に祈って、足の裏で踏んで行く時に、主は約束したとおり、私たちに与えてくださいます。そのような足の裏で踏む経験をしていくと、約束されている遙かなる御国は身近な御国に見えてきます。そして、死という川、歴史末という川を渡れば、そこに輝かしい御国があるのです。十字架において救いのみ業を成し遂げ、死の川を渡り、復活し、昇天されて、御国への道を開いてくださったイエス・キリストが私たちを御国へ導いてくださるのです。
 私たちは頭の頂に信仰の知識を積み重ねるだけでなく、足の裏で踏み進んで行く信仰の実践をなしていきましょう。「このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている」(1:2ー3)。

◇心に備えを…勇気
 ところで皆さんは新聖歌398の歌詞のように「新しき地に 踏み出だす 心に備え ありや見よ」と確信を持って言えますか。踏み出せるという心の備えがありますか。大丈夫です。ヨシュアに対して、主が備えてくださいましたように、私たちにも、主が揺るぎない「勇気」を与えられのです。
「わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。強くあれ。雄々しくあれ。わたしが彼らに与えるとその先祖たちに誓った地を、あなたは、この民に継がせなければならないからだ」(1:5ー6)。
 「ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行なえ。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄えるためである」(1:7)。
 「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである」(1:9)
 「強くあれ。雄々しくあれ。」は決して、単なるかけ声ではありません。この勇気を出せと言われるのには、根拠が過去にあるからです。「主がモーセとともにおられ」たので、大いなる奇跡によってエジプトを脱出し、二つに分かれた紅海の乾いた地を渡り、荒野で水がわき出、天からのマナがふり、救われました。また、律法や幕屋が与えられ、祝され、民が神に背いても、とりなしの祈りで滅びませんでした。過去の恵みの経験がベースにあって、新しい踏み出しに際して、勇気を出させるのです。未来の保障もあります。迷うことのないように、神の栄えを現し、滅びない生き方を示す「律法」(聖書)があります。それに従えば、祝福されるのです。こうして、過去の根拠から、未来の保障に真っ直ぐつながる水平線の筋道が見えるので、信仰者は心おきなく、新しい地に踏み出す勇気が持てるのです。
 そして、天と地を結ぶ神の臨在の垂直線が見えれば、揺るぎない勇気をもって踏み出せるのです。モーセがホレブの山で、最初に聞いたメッセージはこうでした。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、…彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。わたしが下って来たのは、彼らをエジプトの手から救い出し、…乳と蜜の流れる地、カナン人…のいる所に、彼らを上らせるためだ」(出エジプト3:7-8)。天の神が地で悩む民のところに降りてこられたのです。
 今ここで恐れている私たちに「強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである」と間近で暖かく、真実に語りかけ、勇気を与えてくださいます。イエス・キリストは恐れおののく私たちのところに降りて来られ、私たちの悩みを見、叫びを聞き、痛みを知り、そこから救い出し、乳と蜜の流れる地に、一緒に足の裏で踏んで、渡って行かせてくださるのです。私たちはかたわらでささやく、「強くあれ。雄々しくあれ。…あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにいる。」という主の慰めと励ましのみ声を聞き、勇気をもちましょう。