2009年9月27日 主日礼拝(ヨハネ福音書12:24)岡田邦夫
「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」ヨハネ福音書12:24
今、この辺りでは米の収穫の時期ですので、私たちには麦より、米の方が身近に感じます。「米」という字は「八十八」と書くのだとか、八十八の手間がかかることを意味しているとか、言われています。一粒の米が、芽を出し、実を結ぶまで人力以上に、自然界の多くの恩恵を受けていきます。私たちの人生においても、さまざまな恩恵を受けながら、人生の実りを得ようと生きています。それぞれが何らかの実をあらわしたいという自己実現を願って生きています。最近使われる言葉では夢の実現でしょうか。
◇それは逆です:愛の逆説
それが人生というものかも知れませんが、主イエスはさらにまさる実を結ぶ人生を教えられました。それは逆説的です。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます」(12:24)。一粒の麦は主イエスのことで、私たち、人類を罪と死と滅びから救うために、十字架にかかり、身代わりに死のうとしているということです。もし死ななければ何も起こりません。しかし、もし死んだなら、救いの実を豊かに結ぶのです。事実、イエス・キリストは私たちを救うために、自ら進んで、命を捨てられたのです。
そのような自己犠牲というのは愛からしか生まれません。この言葉に重ねられる次の言葉があります。「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません」(ヨハネ15:13)。愛は見返りを求めず、惜しみなく、犠牲を払います。自分のことしか考えないエゴイストの、私やあなたのために、主イエスは一粒の麦となり、死んでくださったのです。神に造られた人間が神を思わず傲慢で、神の造られた自然を破壊し、種を絶滅させ、神のかたちに造られたはずの人間同士で争い、殺し合い、弱者を虐げ、性の暴力をふるい、神に断罪されても仕方のない悲惨な状況です。しかし、そんなどうしようもないほど罪に陥った私たちを救うために、神はイエス・キリストを地に遣わし、身代わりとして御子を十字架で裁きなさったのです。イエスは私たちへの神の怒りを引き受けて、苦しみに苦しみを重ねて、一粒の麦となり、死んでくださったのです。そのイエスの愛を信じ受け入れ、悔い改めるなら、その罪が赦され、私やあなたの中に永遠の命の実が結ばれるのです。
それはこの赦されがたく、滅び去ろうとしている私が、神に赦され、永遠の神と永遠に愛の交わりができるという「神の愛の結実」の奇跡が起こるということです。今、言いましたように、イエスが一粒の麦となって地に落ちて死ぬのはたいへんな苦しみを担うことでした。しかし、それには豊かな実りがありました。イザヤの預言がここに成就したのです。「彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。」(イザヤ53:11新共同訳)。それは自己実現ではなく、み旨実現と言えます。私たちも救われて、そのイエス・キリストの満足に与るのです。それは自己満足でなく、主との共有満足なのです。ですから、神に愛された者の笑顔が生じるのです。
◇それは真っ直ぐです:愛の連鎖
話はこれで終わりではありません。一粒の麦となるのは、私やあなたです。イエス・キリストを信じて神の子にされた者が、一粒の麦となって死ななければ、何も起こりませんし、その一生が無意味になってしまいます。しかし、、一粒の麦となって死に、神と他者のための愛に生きるなら、多くの実を結ぶものなのです。
聖路加国際病院理事長・同名誉院長の日野原重明さんは98才でも現役で元気に働いておられます。牧師の子として生まれ、神戸教会(現・神戸栄光教会)にいました時、小学2年生で洗礼を受けました。その受洗した日のクリスマス祝会で聖書の暗唱をしました。「いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である」(1コリント13:13口語訳)。そして、この聖句は今も一番心に響いていると言われます。
彼は医師となり、1970年3月、福岡での学会に出席するために羽田から飛行機「よど号」に乗った時に事件が起こりました。赤軍9人により、ハイジャックされたのです。福岡空港で子供と65才以上の老人をおろして、北朝鮮のピョンヤンに向かいました。赤軍は成功したと思いこみ、人質の乗客に読書を勧めましたので、日野原さんはドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」文庫本4冊を借り受けました。一冊目の扉に、今日お話ししている聖句が載っていました。
「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます」(ヨハネ12:24)。
飛行機はピョンヤンではなく、韓国の金浦空港に着陸しました。韓国当局と赤軍の激しいやり取り、一歩間違えれば、彼らのポケットに入っているダイナマイトが使われるかもしれないというので、機内は恐怖に包まれていました。そんな中、彼はこの小説を読んで気を落ち着けていました。4日目、山村代議士がよど号に乗り込み、100名の乗客は解放され、帰国できました。
日野原さんが帰宅すると、見舞いの花でいっぱい。その配慮に対して、礼状を書きました。「許された第二の人生が、多少なりとも、自分以外のことのために捧げられればと、願ってやみません。皆さまから受けたお見舞いに対するお礼を、私たちはいつの日か、いずれかの場所で、いずれかの人にお返ししたいと思います」。この事件に出会い、この聖句に出会い、自分はここで一度死んだ、残りの人生は人のために生きようと、180度生き方が変わりました。59才の時でした。…「私を替えた聖書の言葉」(日本キリスト教団出版局)より。彼は今も与えられた命だから、できるだけ、何かのために奉仕しようという気持ちで生きている、理事長もボランティアだと言います。彼のボランティアの生き方は多くの人が知るところです。
復活された主イエス・キリストが十字架にはりつけにされた時の手の傷跡を見せ、脇腹のヤリで刺された傷跡を見せ、あなたのために、地に落ちて死んだ「一粒の麦」は私ですよと、立っておられます。そして、語りかけています。「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」(ヨハネ20:27)。
また、復活された主イエス・キリストは背中を見せて、言われます。「わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます」(ヨハネ12:26)。一粒の麦が地に落ちて死んだ私のように、あなたという一粒の麦も地に落ちて死んで、神と他者のために生きなさいとイエスの背中が語っています。イエスの背を見て生きるなら、あなたも多くの実を結び、その実はいつまでも残るのです。まことに報われる人生になるのです。
「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」ヨハネ福音書12:24
今、この辺りでは米の収穫の時期ですので、私たちには麦より、米の方が身近に感じます。「米」という字は「八十八」と書くのだとか、八十八の手間がかかることを意味しているとか、言われています。一粒の米が、芽を出し、実を結ぶまで人力以上に、自然界の多くの恩恵を受けていきます。私たちの人生においても、さまざまな恩恵を受けながら、人生の実りを得ようと生きています。それぞれが何らかの実をあらわしたいという自己実現を願って生きています。最近使われる言葉では夢の実現でしょうか。
◇それは逆です:愛の逆説
それが人生というものかも知れませんが、主イエスはさらにまさる実を結ぶ人生を教えられました。それは逆説的です。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます」(12:24)。一粒の麦は主イエスのことで、私たち、人類を罪と死と滅びから救うために、十字架にかかり、身代わりに死のうとしているということです。もし死ななければ何も起こりません。しかし、もし死んだなら、救いの実を豊かに結ぶのです。事実、イエス・キリストは私たちを救うために、自ら進んで、命を捨てられたのです。
そのような自己犠牲というのは愛からしか生まれません。この言葉に重ねられる次の言葉があります。「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません」(ヨハネ15:13)。愛は見返りを求めず、惜しみなく、犠牲を払います。自分のことしか考えないエゴイストの、私やあなたのために、主イエスは一粒の麦となり、死んでくださったのです。神に造られた人間が神を思わず傲慢で、神の造られた自然を破壊し、種を絶滅させ、神のかたちに造られたはずの人間同士で争い、殺し合い、弱者を虐げ、性の暴力をふるい、神に断罪されても仕方のない悲惨な状況です。しかし、そんなどうしようもないほど罪に陥った私たちを救うために、神はイエス・キリストを地に遣わし、身代わりとして御子を十字架で裁きなさったのです。イエスは私たちへの神の怒りを引き受けて、苦しみに苦しみを重ねて、一粒の麦となり、死んでくださったのです。そのイエスの愛を信じ受け入れ、悔い改めるなら、その罪が赦され、私やあなたの中に永遠の命の実が結ばれるのです。
それはこの赦されがたく、滅び去ろうとしている私が、神に赦され、永遠の神と永遠に愛の交わりができるという「神の愛の結実」の奇跡が起こるということです。今、言いましたように、イエスが一粒の麦となって地に落ちて死ぬのはたいへんな苦しみを担うことでした。しかし、それには豊かな実りがありました。イザヤの預言がここに成就したのです。「彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。」(イザヤ53:11新共同訳)。それは自己実現ではなく、み旨実現と言えます。私たちも救われて、そのイエス・キリストの満足に与るのです。それは自己満足でなく、主との共有満足なのです。ですから、神に愛された者の笑顔が生じるのです。
◇それは真っ直ぐです:愛の連鎖
話はこれで終わりではありません。一粒の麦となるのは、私やあなたです。イエス・キリストを信じて神の子にされた者が、一粒の麦となって死ななければ、何も起こりませんし、その一生が無意味になってしまいます。しかし、、一粒の麦となって死に、神と他者のための愛に生きるなら、多くの実を結ぶものなのです。
聖路加国際病院理事長・同名誉院長の日野原重明さんは98才でも現役で元気に働いておられます。牧師の子として生まれ、神戸教会(現・神戸栄光教会)にいました時、小学2年生で洗礼を受けました。その受洗した日のクリスマス祝会で聖書の暗唱をしました。「いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である」(1コリント13:13口語訳)。そして、この聖句は今も一番心に響いていると言われます。
彼は医師となり、1970年3月、福岡での学会に出席するために羽田から飛行機「よど号」に乗った時に事件が起こりました。赤軍9人により、ハイジャックされたのです。福岡空港で子供と65才以上の老人をおろして、北朝鮮のピョンヤンに向かいました。赤軍は成功したと思いこみ、人質の乗客に読書を勧めましたので、日野原さんはドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」文庫本4冊を借り受けました。一冊目の扉に、今日お話ししている聖句が載っていました。
「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます」(ヨハネ12:24)。
飛行機はピョンヤンではなく、韓国の金浦空港に着陸しました。韓国当局と赤軍の激しいやり取り、一歩間違えれば、彼らのポケットに入っているダイナマイトが使われるかもしれないというので、機内は恐怖に包まれていました。そんな中、彼はこの小説を読んで気を落ち着けていました。4日目、山村代議士がよど号に乗り込み、100名の乗客は解放され、帰国できました。
日野原さんが帰宅すると、見舞いの花でいっぱい。その配慮に対して、礼状を書きました。「許された第二の人生が、多少なりとも、自分以外のことのために捧げられればと、願ってやみません。皆さまから受けたお見舞いに対するお礼を、私たちはいつの日か、いずれかの場所で、いずれかの人にお返ししたいと思います」。この事件に出会い、この聖句に出会い、自分はここで一度死んだ、残りの人生は人のために生きようと、180度生き方が変わりました。59才の時でした。…「私を替えた聖書の言葉」(日本キリスト教団出版局)より。彼は今も与えられた命だから、できるだけ、何かのために奉仕しようという気持ちで生きている、理事長もボランティアだと言います。彼のボランティアの生き方は多くの人が知るところです。
復活された主イエス・キリストが十字架にはりつけにされた時の手の傷跡を見せ、脇腹のヤリで刺された傷跡を見せ、あなたのために、地に落ちて死んだ「一粒の麦」は私ですよと、立っておられます。そして、語りかけています。「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」(ヨハネ20:27)。
また、復活された主イエス・キリストは背中を見せて、言われます。「わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます」(ヨハネ12:26)。一粒の麦が地に落ちて死んだ私のように、あなたという一粒の麦も地に落ちて死んで、神と他者のために生きなさいとイエスの背中が語っています。イエスの背を見て生きるなら、あなたも多くの実を結び、その実はいつまでも残るのです。まことに報われる人生になるのです。