2009年9月6日 主日礼拝(出エジプト記19:1~17)岡田邦夫
「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」出エジプト20:2-3
ある人がこれを聞いてくださいと難波紘一さんの講演会のテープを貸してくれました。彼は30を過ぎてから、転びやすくなり、検査の結果、進行性筋(きん)萎(い)縮(しゆく)症(しよう)(筋ジストロフィー)と診断されました。手足の筋肉が徐々に萎縮し、最後には内臓の筋肉が萎縮して、死に至るという難病です。それを知らされた時はショックで、夫妻とも受け入れがたいことでした。紘一さんは、夫婦と子供で教会に行き、一生懸命主に仕えているのに、どうしてこのような難病になるのか、「現代のヨブや」と嘆きます。奥さんも将来を考えると眠れないのです。友人のすすめで一口、アルコールを口にすると眠れました。
そうしているうちに、台所で一升(しよう)瓶(びん)を抱え、コップに注いで飲む光景が見られるようになり、紘一さんはこれではいけない、巡礼の旅に出ようと言いだし、あらゆる、キリスト教の修養会、聖会にでました。頭では神にゆだねることは分かるのですが心はゆだねられないでいました。奥さんの友人が陸奥(みちのく)の教会でご奉仕をしているというので、尋ねました。アルコールなしに眠れない事情を話すと、友人はこう言いました。
「それだけは止めなさい。枕に顔を埋めて、泣いて祈りなさい。」と戒められました。その懸命な言葉を聞いた時、奥さんは今まで心のつかえん棒になっていたものが外れたのでしょうか、どーっと泣き出したのです。泣き明かした後に「あなたの荷を先だって担われた方がいるでしょう。」と言われた瞬間、すべてゆだねきれて、魂は軽く、晴れやかになり、希望もわいてきました。紘一さんも同時体験をされました。それからは全国、命の続く限り、証詞をして回りました。
◇止めなさい、それだけは
「それだけは止めなさい。」という「戒め」が二人を変えたのです。シナイ山のふもとで、イスラエルの民に十戒という戒めが与えられましたが、ほんとうの戒めというのはそのような人を生かすものではないでしょうか。
十戒の告知の前に、まず、エジプトから主が救い出してくださった出来事がたいへん恵みに満ちたものであり、大いなる奇跡であったことが告げられています。「あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたをわしの翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを見た」(19:4)。その救いの神がその民をどのようになさろうとしているか、そのみ旨を示します。「今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」(19:5-6)。何という主の思い入れの強さでしょうか。
そして、十戒の「契約」が啓示されたのですが、それは何とも荘厳な出来事でした。神がシナイ山に降りて来られるというので、二日の間に民が聖別し着物を洗って、待っていました。「三日目の朝になると、山の上に雷といなずまと密雲があり、角笛の音が非常に高く鳴り響いたので、宿営の中の民はみな震え上がった」のです(19:16)。モーセは神を迎えるために、民を宿営から連れ出し、山のふもとに立たせました。シナイ山は全山が煙っており、その煙は、かまどの煙のように立ち上り、全山が激しく震えました。
「角笛の音が、いよいよ高くなった。モーセは語り、神は声を出して、彼に答えられた。」と記されています(19:19)。私たちにはとても想像できないような光景です。そして、モーセは山の頂で受けた啓示の言葉を民に告げました。それが十戒です。全体を把握しやすいように、長い部分を省略してたものを新共同訳でお読みします。アーメンを加えます。
十戒………………………………………………………………………………
わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。
(1)あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。
(2)あなたはいかなる像(ぞう)も造ってはならない。
(3)あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
(4)安息日(び)を心に留(と)め、これを聖別せよ。
(5)あなたの父母を敬え。
(6)殺してはならない。
(7)姦淫してはならない。
(8)盗んではならない。
(9)隣(りん)人(じん)に関して偽証してはならない。
(10)隣(りん)人(じん)の家(いえ)を欲(ほつ)してはならない。 アーメン
◇信じなさい、それだけは
神と民とは「わたしとあなた」という固有で親密な関係です。その神は奴隷の家から導き出してくださった神ですから、民には、この神以外を神とすることはありえないのです(1)。そして、虚しい偶像がこの生ける神に取って代わることもありえないことです(2)。そして、主の名をみだりに唱えて、人が神を用いるような傲慢な生き方はあってはならないことです(3)。
私たちはこの戒めの言葉を聞く時に、自分があってはならない不真実、不信仰、不敬虔な者であることに気付かされ、打ちのめされます。しかし、十戒の言葉を初めから聞き直すと、「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」という救い主に出会います。そして、ねたむ神、言い換えれば「熱愛する神」(20:5、岩波訳)を知り、贖われたことを確信し、さらに、主の名を賛美し、生ける神にのみ信頼し、三位一体の神を敬う者になるのです。
「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」という霊的な聖別された民の生き方は、時間を聖別して、主なる神を礼拝します。(4)「安息日(び)を心に留(と)め、これを聖別せよ。」です。その日、神の民は創造のときに神が七日目休まれた、その神の安息に与るのです。また、関係を聖別して、神を敬う生き方を投影して、(5)「あなたの父母を敬え。」の戒めに生きます。それは後に与えられる相続地での命が約束されています(20:12)。
ここでもまた、この二つの戒めの前に立つと、形はできていても、心には留めていない、不誠実さに気付き、果てしない虚しさにおそわれます。再び、聞き直す時には、時間の中に生き、関係の中に生きる小さな者をも、永遠の神、無限の神が心を留められていることを悟ります。イエス・キリストの血によって、不誠実な罪人はきよめられ、私たちは時間を聖別し、関係を聖別し、聖霊の満たしの中に生きるようになります。
さらに、民のところに降りて来られ、「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」と顕現された神は、私たちを「熱愛する神」です。神に熱愛された民が隣人を愛さないではおられないはずです。五つの戒めが続きます。(6)殺してはならない。(7)姦淫してはならない。(8)盗んではならない。(9)隣(りん)人(じん)に関して偽証してはならない。(10)隣(りん)人(じん)の家(いえ)を欲(ほつ)してはならない。
しかし、すべて兄弟を憎む者は人殺しであるというヨハネの教え(1ヨハネ3:15)や、兄弟に向かって腹を立てる者、「能なし」とか「ばか者」と言うような者は第六戒に反し、裁かれるという山の上の教え(マタイ5:22)の光に照らされれば、この五つの戒めの違反者だと認めざるを得なくなります。イエスのたとえ話に出てくる取税人のように「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」と祈らざるを得ません(ルカ18:13)。そして、十字架にかけられたイエスを見上げるのです。
イエスの受難を思い起こします。イエスを十字架にかけた人たちはイエスに対して、この五つの戒めを全部、破っていました。聖書を見れば明らかです。さらに前半の五つの戒めを破っていることもイエスに指摘されました。他人ごとではありません。私たちもまた、十戒の違反者です。
しかし、そんな違反者のために、その裁きをイエス・キリストが代わって受けて下さり、私たち、信じる者を義としてくださったのです。「さばきのばあいは、一つの違反のために罪に定められたのですが、恵みのばあいは、多くの違反が義と認められるからです」(ローマ5:16)。シナイ山に降りてこられた「熱愛する神」はまた、カルバリ山の十字架にまで降りてきて下さって、新しい契約を立てられたのです。
あらためて、私たちはカルバリ山のふもとで、十戒の言葉をききましょう。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。……。」
「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」出エジプト20:2-3
ある人がこれを聞いてくださいと難波紘一さんの講演会のテープを貸してくれました。彼は30を過ぎてから、転びやすくなり、検査の結果、進行性筋(きん)萎(い)縮(しゆく)症(しよう)(筋ジストロフィー)と診断されました。手足の筋肉が徐々に萎縮し、最後には内臓の筋肉が萎縮して、死に至るという難病です。それを知らされた時はショックで、夫妻とも受け入れがたいことでした。紘一さんは、夫婦と子供で教会に行き、一生懸命主に仕えているのに、どうしてこのような難病になるのか、「現代のヨブや」と嘆きます。奥さんも将来を考えると眠れないのです。友人のすすめで一口、アルコールを口にすると眠れました。
そうしているうちに、台所で一升(しよう)瓶(びん)を抱え、コップに注いで飲む光景が見られるようになり、紘一さんはこれではいけない、巡礼の旅に出ようと言いだし、あらゆる、キリスト教の修養会、聖会にでました。頭では神にゆだねることは分かるのですが心はゆだねられないでいました。奥さんの友人が陸奥(みちのく)の教会でご奉仕をしているというので、尋ねました。アルコールなしに眠れない事情を話すと、友人はこう言いました。
「それだけは止めなさい。枕に顔を埋めて、泣いて祈りなさい。」と戒められました。その懸命な言葉を聞いた時、奥さんは今まで心のつかえん棒になっていたものが外れたのでしょうか、どーっと泣き出したのです。泣き明かした後に「あなたの荷を先だって担われた方がいるでしょう。」と言われた瞬間、すべてゆだねきれて、魂は軽く、晴れやかになり、希望もわいてきました。紘一さんも同時体験をされました。それからは全国、命の続く限り、証詞をして回りました。
◇止めなさい、それだけは
「それだけは止めなさい。」という「戒め」が二人を変えたのです。シナイ山のふもとで、イスラエルの民に十戒という戒めが与えられましたが、ほんとうの戒めというのはそのような人を生かすものではないでしょうか。
十戒の告知の前に、まず、エジプトから主が救い出してくださった出来事がたいへん恵みに満ちたものであり、大いなる奇跡であったことが告げられています。「あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたをわしの翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを見た」(19:4)。その救いの神がその民をどのようになさろうとしているか、そのみ旨を示します。「今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」(19:5-6)。何という主の思い入れの強さでしょうか。
そして、十戒の「契約」が啓示されたのですが、それは何とも荘厳な出来事でした。神がシナイ山に降りて来られるというので、二日の間に民が聖別し着物を洗って、待っていました。「三日目の朝になると、山の上に雷といなずまと密雲があり、角笛の音が非常に高く鳴り響いたので、宿営の中の民はみな震え上がった」のです(19:16)。モーセは神を迎えるために、民を宿営から連れ出し、山のふもとに立たせました。シナイ山は全山が煙っており、その煙は、かまどの煙のように立ち上り、全山が激しく震えました。
「角笛の音が、いよいよ高くなった。モーセは語り、神は声を出して、彼に答えられた。」と記されています(19:19)。私たちにはとても想像できないような光景です。そして、モーセは山の頂で受けた啓示の言葉を民に告げました。それが十戒です。全体を把握しやすいように、長い部分を省略してたものを新共同訳でお読みします。アーメンを加えます。
十戒………………………………………………………………………………
わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。
(1)あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。
(2)あなたはいかなる像(ぞう)も造ってはならない。
(3)あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
(4)安息日(び)を心に留(と)め、これを聖別せよ。
(5)あなたの父母を敬え。
(6)殺してはならない。
(7)姦淫してはならない。
(8)盗んではならない。
(9)隣(りん)人(じん)に関して偽証してはならない。
(10)隣(りん)人(じん)の家(いえ)を欲(ほつ)してはならない。 アーメン
◇信じなさい、それだけは
神と民とは「わたしとあなた」という固有で親密な関係です。その神は奴隷の家から導き出してくださった神ですから、民には、この神以外を神とすることはありえないのです(1)。そして、虚しい偶像がこの生ける神に取って代わることもありえないことです(2)。そして、主の名をみだりに唱えて、人が神を用いるような傲慢な生き方はあってはならないことです(3)。
私たちはこの戒めの言葉を聞く時に、自分があってはならない不真実、不信仰、不敬虔な者であることに気付かされ、打ちのめされます。しかし、十戒の言葉を初めから聞き直すと、「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」という救い主に出会います。そして、ねたむ神、言い換えれば「熱愛する神」(20:5、岩波訳)を知り、贖われたことを確信し、さらに、主の名を賛美し、生ける神にのみ信頼し、三位一体の神を敬う者になるのです。
「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」という霊的な聖別された民の生き方は、時間を聖別して、主なる神を礼拝します。(4)「安息日(び)を心に留(と)め、これを聖別せよ。」です。その日、神の民は創造のときに神が七日目休まれた、その神の安息に与るのです。また、関係を聖別して、神を敬う生き方を投影して、(5)「あなたの父母を敬え。」の戒めに生きます。それは後に与えられる相続地での命が約束されています(20:12)。
ここでもまた、この二つの戒めの前に立つと、形はできていても、心には留めていない、不誠実さに気付き、果てしない虚しさにおそわれます。再び、聞き直す時には、時間の中に生き、関係の中に生きる小さな者をも、永遠の神、無限の神が心を留められていることを悟ります。イエス・キリストの血によって、不誠実な罪人はきよめられ、私たちは時間を聖別し、関係を聖別し、聖霊の満たしの中に生きるようになります。
さらに、民のところに降りて来られ、「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」と顕現された神は、私たちを「熱愛する神」です。神に熱愛された民が隣人を愛さないではおられないはずです。五つの戒めが続きます。(6)殺してはならない。(7)姦淫してはならない。(8)盗んではならない。(9)隣(りん)人(じん)に関して偽証してはならない。(10)隣(りん)人(じん)の家(いえ)を欲(ほつ)してはならない。
しかし、すべて兄弟を憎む者は人殺しであるというヨハネの教え(1ヨハネ3:15)や、兄弟に向かって腹を立てる者、「能なし」とか「ばか者」と言うような者は第六戒に反し、裁かれるという山の上の教え(マタイ5:22)の光に照らされれば、この五つの戒めの違反者だと認めざるを得なくなります。イエスのたとえ話に出てくる取税人のように「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」と祈らざるを得ません(ルカ18:13)。そして、十字架にかけられたイエスを見上げるのです。
イエスの受難を思い起こします。イエスを十字架にかけた人たちはイエスに対して、この五つの戒めを全部、破っていました。聖書を見れば明らかです。さらに前半の五つの戒めを破っていることもイエスに指摘されました。他人ごとではありません。私たちもまた、十戒の違反者です。
しかし、そんな違反者のために、その裁きをイエス・キリストが代わって受けて下さり、私たち、信じる者を義としてくださったのです。「さばきのばあいは、一つの違反のために罪に定められたのですが、恵みのばあいは、多くの違反が義と認められるからです」(ローマ5:16)。シナイ山に降りてこられた「熱愛する神」はまた、カルバリ山の十字架にまで降りてきて下さって、新しい契約を立てられたのです。
あらためて、私たちはカルバリ山のふもとで、十戒の言葉をききましょう。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。……。」