オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

信じます

2013-05-05 00:00:00 | 礼拝説教
2013年5月5日 主日礼拝(ローマ10:8-17)岡田邦夫


 「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」ローマ10:10

 むかしむかし、ある所にお爺さんとお婆さんがいました。おとぎ話の定番です。息子を寝かせようと父親が桃太郎の昔話をしてあげると、ませた息子がいちいち、いつどこでだれがというように解説してしまって、息子は頭が冴えてくる、父親は寝てしまうというような落語があります。
 聖書もむかしむかし、ある所にお爺さんとお婆さんがいましたという話で始まっています。ただ、架空の話ではなく、メソポタミヤ文明の地、カルデヤのウルから出てきたアブラハムとサラの老夫婦がいたこと、神の約束のように奇跡的にイサクが生まれたこと、それはその子孫のイスラエルがエジプトを脱出した事件の5世紀前の出来事として記されているのです。それは勧善懲悪を教える物語というものではなく、私たちが受け継ぶべく信仰の父の言葉なのです。ヘブライ語で歴史という語は系図とも訳せます(創世記11:27口語訳は系図、新改訳は歴史)。イスラエルはアブラハムが神を信じた信仰の子孫であり、異邦人である私たちも神を信じる信仰の子孫として、歴史的に4000年のつながりを持っているのです。

◇信頼する
 アブラハムが神から与えられた信仰の中核、信仰のDNAとも言うべきものは何だったのでしょうか。「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(創世記15:6=ローマ4:3)です。神は歴史の上に現れ、アブラハムという人に語りかけ、彼に人格的に出会われたのです。あなたを祝福すると語られた主なる神と向き合い、人格的に信頼したのです。アブラハムは臨んでくださった神を信頼したからこそ、行き先を知らないで、神の示す所に行き、不妊のサラから子が生まれるとの約束を信じ、待ったのです。きっと、神も彼を信頼するという信頼関係があったに違いないと思います。信仰とは信頼です。「聖書はこう言っています。『彼に信頼する者は、失望させられることがない。』」(ローマ10:11)。神の御子がみ位をすて、人となられ、しもべとなられ、十字架にかかり、命を献げてまで私たちを愛し、私たちを滅びから助け出してくださったお方に全幅の信頼をもって生きてまいりましょう。

◇認識する
 アブラハムは神がわたしは全能の神であるという啓示を受けたとき、普通の理性では受けとめられなかったでしょうが、霊的に開かれた理性で受けとめ、うなずいたと思います。彼はおよそ百才になって、妻との間に子供が生まれる等、不可能であるにもかかわらず、全能の神、不可能を可能とする神を信じ、認識していたのです。事実、約束された子供が生まれてきました。神の言葉を体験的に知る、それが実りある信仰なのです。
 教会に来て初めのころは、人類の罪のためにイエス・キリストが十字架にかかり、贖ってくださり、その福音を信じれば救われると知的に知ったとしてもわかったわけではありません。やがて、聖霊が働いて、イエス・キリストは「私」を愛し、私の罪のために身代わりに死んでくださったのだと霊的に受けとめられたときに、十字架がわかった、神がわかったとうなずけるのです。人生の荒波にもまれているときに、どうして、私だけ、こんな目に会うのかと神を求めていると、「しっかりするのだ。わたしである」というみ声を聞いて、平安をいただくということもあるでしょう。嵐を静めるイエス・キリストを知らされるのです。「『みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。』これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです」(ローマ10:8)。
 アブラハムにイサクをモリヤ山にいって、献げなさいと神に命じられて、それにしたが、その山でイサクに手をかけようとしたときに、ストップがかかり、「あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」とみ声を聞きました。神の側で、あなたがわかったと言われたのです。私たちのそのように神を知り、神に知られるというわかり合っていく間柄なのです。信仰とは認識です。

◇告白する
 例えば、結婚ですが、初めに何らかの出会いがあり、生涯を共にするのはこの人だと信頼しあって、結婚します。結婚前も相手を知るわけですが、結婚後はなお一層生涯かけて、知って知られていく必要があります。イエス・キリストを信じていくということはそれと似ているでしょう。そこで、重要なことは告白です。決め手はプロポーズです。弟子たちはイエスと出会い、イエスのことがわかってきたときに、こう尋ねました。「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」。イエスのプロポーズのような投げかけです。するとペテロが答えました。「あなたは、キリスト(メシヤ・救い主)です。」と告白しました(マルコ8:29)。その告白を聞かれて、主は受難に向かい、十字架に向かわれました。贖いをなしとげ、死んでよみがえられ、信じる者を義とし、永遠の命を与える道を開きました。
 私の母に伝道したのですが、無神論者だと自称して、聞いてもらえなかったのですが、息子が世話になっているというので教会に来てくれました。それがきっかけで、後にキルボルンという宣教師の方をお招きしての伝道会に来ました。最後に信仰の勧めがあったときに、母はすなおに手を上げました。私は母を前に祈りました。示されたみ言葉は「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」(ローマ10:9ー10)。母の口から、悔い改めの告白とイエスさまを信じますという告白を聞きました。その後、受洗し、聖書一筋に生き、平安の内に御国に行きました。
 あなたは神に尋ねてご覧なさい。あなたは私を愛しておられますかと。きっと「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」と告白されるでしょう(イザヤ43:4)。また、あなたは神から尋ねられるでしょう。「(ヨハネの子シモン。)あなたはわたしを愛しますか」(ヨハネ21:16)。あなたは何と答え、告白しますか。
 告白というのは素晴らしい仕掛けをもっています。告白したようになるのです。イエスのなされた奇跡で、よく出てくるのが「あなたの信仰のとおりになるように」です。信仰の告白は奇跡を起こすのです。また、マリヤのように「はんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」とも告白することで、み言葉の実現につながります(ルカ38)。従順な信仰告白をどれほど、主は喜ばれるでしょうか。信仰とは告白です。「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」。
 そうした意味で、私たちは使徒信条をもって、兄弟姉妹と共に心を合わせて、三位の神に告白できるというのは実に素晴らしいことです。
神は人類を救うために、神の御子・イエス・キリストを世に遣わし、罪の奴隷にある私たちを死と滅びから救うために十字架にかかられ、義を全うされるために私たちの代表となって神に裁かれました。また、同時に罪を贖い、赦し、永遠の命を与えるという無償の愛を全うするために、身代わり(代替え)となられ、神にとりなしました。そして、よみがえられました。私たちは悔い改めて、主のもとに帰り、イエス・キリストの十字架のみわざを信じるだけで救われたのです。「神よ。あなたの(十字架の救いの)道は聖です」。義と愛に満ちた聖なる「神のように大いなる神が、ほかにありましょうか。」詩篇77:13


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