オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

驚きの四楽章

2009-11-08 00:00:00 | 礼拝説教
2009年11月8日 主日礼拝(ルカ福音書7:36~50)岡田邦夫


 「わたしは『この女の多くの罪は赦されている』と言います。それは彼女がよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。」ルカ福音書7:47

 私が中学1年の時、教室で昼の弁当を食べ終えて、校庭に行こうとしたら、何となく暗い感じの女子がいました。まだ、半分も食べていないようで、つい、のろいとからかってしまい、廊下に出ました。担任の教師が私を呼び止め、あの子は病気をしているので、ゆっくりなんだから、そんなことをしてはいけないと注意されました。その時、この子の元気のなさは病気だったからか、悪いことをしたなあ、見た目で人を見ちゃいけないんだなあ、と知らされたことでした。

◇「驚き」その1・女の行動
 ここに何か、違和感のある人が出てきます。パリサイ人シモンにイエスが招かれ、当時の食事習慣のように、足をゆったりと横に投げ出し、食卓に着くと、ひとりの女性がやってきました。何と彼女は泣きだし、その涙でイエスの足をぬらし、髪の毛でぬぐい始め、その足に口づけしたのです。周囲はあっけにとられたでしょう。それだけでなく、石膏のつぼを割り、もてなしのための香油を塗ったのです。この意外な行動というか、異常な感じの行為に私たち、読者はまず、驚きます。

◇「驚き」その2・イエスの対応
 ところが、ここに現れた人が「罪深い者」と言われている女性、その者の行為をイエスが容認しているのですから、パリサイ人シモンは、内心、かなり驚いたのです(7:39)。この女性、何か重い罪を犯したのでしょうか、それとも、遊女だったのでしょうか。高潔に生きようと、一線を引いて、汚れたものには触れないように生活しているパリサイ人にとっては、この女性は汚れた者、イエスが拒絶しないのは信じがたいことでした。自分が汚れてしまうではないか、預言者と見ていたが、そうではない、得体の知れない者かも知れないと思ったことでしょう。
 読者の私たちも、女性が男性の足を涙でぬらし、自分の髪の毛で拭い、口づけするというような光景を思い浮かべれば、いやらしささえ感じてしまい、主イエスはどうして、振り払い、ノーと言わないのだろかとと思ってしまいそうです。画家がこの場面をリアルに描いて、誤解されず、聖画と認めてもらうにはたいへん難しいのではないかと思います。

◇「驚き」その3・シモンの良心
 このことで、シモンはイエスに言いたいことがあったのでしょうが、逆にイエスの方から、彼に向かって、「シモン。あなたに言いたいことがあります。」と言われてしまったのですから、彼はまた、驚いたことでしょう(7:40)。私たちはどうしても、見た目で判断してしまいます。この女性を「罪ある女」とユダヤの社会、特にパリサイ人が烙印を押してしまっていたように、誤った先入観や世間の良からぬ風潮で、人を偏見の目で見てしまいます。また、差別してしまいます。あるいは、誰かの言動に違和感を覚えると、この人は変な人だとか、悪い人だとか、決めつけてしまいます。しかし、そのような時に、主が「シモン(あなたの名)。あなたに言いたいことがあります。」と「良心」に語りかけられるでしょう。あなたの良心がもし、研ぎ澄まされていたら、人を罪ある者と決めつけていたが、自分こそが罪ある人間だと示されるのではないでしょうか。これは真実を気付かせる良い驚きです。

◇「驚き」その4・救い主の宣言
 そこで、イエスはたとえを話され、シモンに問います(7:41ー43)。「ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか」。シモンが「よけいに赦してもらったほうだと思います。」と答えますと、イエスは愛と赦しのメッセージを伝えます。その女のほうを向いて、シモンに言われました。
 わたしがこの家にはいって来たとき、あなたは足を洗う水をくれず、口づけもしてくれず、わたしの頭に油を塗ってくれなかった。しかし、この女を見ましたか。この女は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれ、足に口づけしてやめませんでしたし、足に香油を塗ってくれました。わたしは告げます。このように、彼女がよけい愛したから、「この女の多くの罪は赦されている」(7:47)。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。
 女性に対しては「あなたの罪は赦されています。」と宣言し、「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。」と信仰を認め、励ましました(7:487:50)。

 彼女の行為は他者には異常とも見られるのですが、動機は信仰からくる愛が、涙とともに、あふれ出たものでした。彼女は心のわが家に、イエス・キリストを歓迎していたのです。心のキスの歓迎、心の香油の歓迎をしたのです。自分の持っているもので、精一杯の歓迎をしたのです。
 私が若い日に「彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。」のみ言葉に導かれて、イエス・キリストを救い主と信じました(ヨハネ1:12)。私を受け入れてくださっている主を受け入れたのです。受容の受容という言い方をします。きっと、この女性、罪深い女として、排斥される世の中で、この方だけは私を100パーセント受け入れてくださると信じ、そのイエスを100パーセント迎え入れたのでしょう。それが多く愛したこと、多く赦されたことではないでしょうか。
 そして、「あなたの罪は赦されています。」と宣言され、罪深い者という烙印(らくいん)は消され、「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。」とみ言葉が告げられ、みじめな人生から解放され、正統な社会の一員として、また、神の国の一員、すなわち、神の子として生きる道が開かれたのです。実に驚くべきことが起こったのです。そのようなわけで、実に光り輝く、美しい出来事でした。み国の画家がいるとしましたら、きわめて美しい、感動の一幅の絵を描いたことでしょう。
 あるいはまた、み使いがこの場面で、ハレルヤ・コーラスを美しく高らかに、賛美していたかも知れません。あなたが、十字架にかかり、復活された主イエス・キリストを最も大切なお方として、心に歓迎しますなら、どんな音楽にまして、心に響く神の言葉が聞こえてくるでしょう。「あなたの罪は赦されています。あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい」。これこそ「驚くばかりの恵みなりき」です(新聖歌233)。


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