オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

罪をゆるす方

2011-10-30 00:00:00 | 礼拝説教
2011年10月30日 主日礼拝(マタイ福音書9:1-8)岡田邦夫


 イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」と言われた。(マタイ福音書9:2)

 聖歌や讃美歌のタイトルは歌詞の出だしにしているため、たとえば、司会者が「新聖歌330番『幸い薄く見ゆる日に』を賛美しましょう。」と言うと何か暗い歌なのかと思ってしまうことがあります。曲はアイルランド民謡「ロンドンデリーの歌」で、続く歌詞は心にぐっと来る素晴らしい聖歌です。お金がなかったり、何かをなくしたり、病気になったりすると、幸い薄く見ゆる日と感じるものです。ガリラヤ湖北西の町で宣教の拠点としていたカペナウムにイエスが帰られた時でした。脳卒中で倒れたかして、後遺症で半身不随となったのでしょう。中風の人が床に寝かせたままで、イエスのところに運ばれてきました。不幸な人を連れてきたのです。

 医師であれば、現れている外見、身体の症状を見て、手当をします。しかし、主イエスは中部の人と運んできた人たちの内面、心の状態を見て、対応なされたのです。「人はうわべを見るが、主は心を見る」のです(1サマエル16:7)。一般的に病気になったのはその人に何か罪があるからだ思われていたようです。因果応報で考えるからでしょうか。財産を失い、子どもを失い、健康も失われたヨブを見舞いにきた友人がそうでした。こんなに不幸になったのは君が神の前に何か罪を犯しているからだ、それを悔い改めればよくなると言ったのがそれです。それをくつがえすのがヨブ記です。きっとこの中風の人は病気の症状だけでも辛いのに、こうなった原因は自分の罪にあるのではないかと思い詰め、悩みに悩んでいたのでしょう。それで周りの人が救いを求めて、主イエスの御許に連れてきたのではないかと思います。

 そこで「イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、『子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。』と言われた」のです(9:2)。一言一句、いつくしみに満ちたお言葉です。病のために世間から白い目で見られ、疎外されていたのかも知れませんが、子よ。アブラハムの子よ。神の民の子よと呼ばれたのです。思い悩んで心がなえていたかも知れませんが、「しっかりしなさい」と言われたようにしっかり心が立ち上がれたのです。「あなたの罪は赦された」と宣言され、良心の責めから解放され、魂は生き返ったのです。
 それから、律法学者たちとのやり取りの後、主イエスが「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われると、中風がいやされ、起きて家に帰っていきました。主は罪の問題と病の問題とわけて扱われました。罪の赦しの宣言と病の癒しの宣言と別々になさり、両方をされました。私たちが何かに心が縛られて動けないでいる、精神的な中風かも知れませんが、主イエスに出会って、主イエスの言葉を信じて、そこから解放されることでしょう。

 主は心を見られます。そこにいた律法学者が罪の赦しを宣言出来るのは神だけだ、この人は神を冒涜していると心の中で言ったことを見抜かれました。そこで、はっきりとメッセージを伝えます。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために」と言われて、奇跡を起こしました(9:5-6 )。主イエス・キリストのメッセージの趣旨は「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」であり(マタイ4:17)、奇跡はその御国が近づいたしるしです(ルカ11:20)。赦しの宣言と癒しの宣言とどちらがやさしいかと問うています。言葉を変えれば、良心宗教と幸福宗教とどちらがやさしいかともいえます。
 私が初めてキリスト教の集会に行った時は興味本位でしたし、教会に行くようになっても、何か幸せを求めていたようです。しかし、教会から伝わってくるメッセージを魂が感じていました。直接、牧師から聞いたわけではないのですが、「最後の審判の時にお前は神の前に立てるのか?」と言うことでした。楽しく充実した日を送った夜中に、その問いかけを感じるのです。ある伝道会で、信じる決心をし、神を信じてこなかったことを悔い改め、私の罪のためにイエス・キリストが十字架にかかって死んでくださったと言葉に出して祈りました。そして、あなたは罪赦され、神の子だと呼ばれて感動しました。「今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。」と罪の赦しの宣言を受けた時は(ローマ8:1口語訳)、中風のように良心のとばめで硬直していた私の魂が、解放されたように感じられました。恵みの支配する天のみ国で、魂が自由に羽ばたいている心持ちになりました。

 しかし、罪の赦しは犠牲の血が流されなくてはなされないのです。イエス・キリストが十字架において、私たちの罪の身代わりとなって、苦しみを受け、ご自分の命を贖いの代価として払うことなしには罪の赦しはなりたたないのです。動物の犠牲ではなく、ご自身の犠牲をもってこそ、私たちは罪の赦しを宣言していただけるのです。良心の責め苦から解放されるために、どれほどの御子の犠牲が払われたことでしょうか。罪の赦しという至難の業を私たちを愛するがゆえに最大の犠牲をもってしてくださったのです。
 そのように私たちは「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」という天上の祝福が与えられ、それに添えて「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」という地上の幸せが与えられて生きていくのです。