オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

嵐を静められるイエス

2011-10-23 00:00:00 | 礼拝説教
2011年10月23日 主日礼拝(マタイ福音書8:23-27)岡田邦夫


 「イエスは言われた。『なぜ怖がるのか、信仰の薄い者立ちだ。』それから、起き上がって、風と湖をしかりつけられると、大なぎになった。」マタイ福音書8:26

 本日はみのお泉教会と三田泉教会の合同礼拝です。箕面市13万人、三田市11万5千人で人口は同じくらい。都市計画も、箕面では愛称・彩(さい)都(と)の「国際文化公園都市」、三田では「神戸三田国際公園都市」というのがあり、箕面には箕面山(やま)の箕面自然公園があり、三田には有馬富士(山)の県立有馬富士公園があって、両市は共通点があります。教会の方も人数は同じく位で、みのお泉も三田泉もそれぞれ市のはずれに位置して、似ています。似てると言っても、ちょっと無理がありますけどね。
 山の話が出ましたが、「嵐」という字は山に風と書きます。山から吹き下ろしてくる風をあらしと呼んでいたかららしいです。ガリラヤ湖というのはヨルダン峡谷の谷底にあり、東西を高地に挟まれた形になっているため、しばしば、山から強烈な風が崖を吹き下ろして来て、湖が突然荒れ出すのです。この日、イエスが舟に乗られたので、弟子たちも同船しましたところ、ガリラヤ湖に大暴風が起こって、舟は木の葉のように波にもまれ、大波をかぶり、今にも沈みそうになりました。長年、この湖で漁師をしてましたペテロたちは経験上、自分たちはもう助からないと恐怖に襲われました。
 私たちの人生の船旅でも、嵐にあい、荒波に翻(ほん)弄(ろう)されることがあります。事故や病気の嵐、不況の嵐、リストラの嵐、いじめや虐待の嵐、広くは戦争や飢餓の嵐、あるいは、迫害の嵐…。さらに新聖歌には「罪の嵐はいかに吹くとも」というのがあります(321)。

 ところが、主イエスはそんな嵐の中で「眠っておられた」のです。人になられた方としてはたいへん疲れて寝ていたのですが、神の子としてはこのような嵐など何も恐れることもないことでした。この嵐が思わぬ出来事でしたが、それ以上に驚くような(アンビリーバブルな)出来事が起こりました。福音書はこう伝えています。「弟子たちはイエスのみもとに来て、イエスを起こして言った。『主よ。助けて下さい。私たちはおぼれそうです。』イエスは言われた。『なぜ怖がるのか、信仰の薄い者たちだ。』それから、起き上がって、風と湖をしかりつけられると、大なぎになった。人々は驚いてこう言った。『風や湖までが言うことを聞くとは、一体この方はどういう方なのだろう。』」(8:25ー27)。

 私たちの人生の舟に主イエスは同船されているのです。時に嵐に遭遇しても、口を出さないでいるかも知れません。しかし、弟子たちのようにみもとに行って「主よ。助けて下さい。私たちはおぼれそうです。」と祈る時に、「なぜ怖がるのか、信仰の薄い者たちだ。」と言われるかも知れません。それは、私たちをしかっているのではないのでしょう。嘆きもあるけれど、救いの言葉だと思います。しかられたのは風と湖、嵐に対してでした。風や湖までが言うことを聞いて、大なぎにしてしまうのです。私たちの人生の船旅に同船されるイエスという方は私たちと苦楽を共にされる方です。しかし、この方は波風を自在にできる全能の神、復活の主なのです。主を信じた神の子たち、神の家族を守るため、風と湖をしかる方なのです。大阪のお母さん流に言うなら、「うちの子に何すんねん」と私たちの敵をしかり飛ばすのです。

 しかし、主はむやみにしかる方ではありません。ゲッセマネのことを思い起こして欲しいのです。イエスは十字架の受難という「嵐」に入られた時に、イエスは悲しみもだえ始め、弟子たちに言いました。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい」(マタイ26:38)。しかし、弟子たちは眠ってしまうのです。イエスは迫害の嵐、受難の嵐の中で、「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」と三度も祈られたのです。そして、十字架の嵐に身を投じていかれたのです。
 私たちのほんとうの嵐は罪からくる死とその裁きの嵐です。私たちはゲッセマネの弟子たちのようにそれを意識せず、霊的に眠ってしまってはいないでしょうか。その死と裁きの究極の嵐から私たちを救出するために、主はご自分の命をかけてくださったのです。そして、復活されたのです。そのお方が人類の敵をしかるのです。「私の神の子たちに何をするのだ!」と。「心のガリラヤ湖に嵐はすさめど、主イエスのひと言葉は平和をもたらす」のです(新聖歌453)。
 ある方にテープを借りました。難波紘一さんという方の講演でした。熱心なクリスチャンで教会生活をしっかりされて、中学校の教師をして働き、クリスチャンの方と結婚し、主に仕える生活をしていました。しかし、30を過ぎてから、歩行が難しくなることから始まり、体が順々に動かなくなっていきました。進行性筋萎縮症(筋ジストロフィー)の難病だと診断されて、たいへんなショックを受けました。まじめに信仰しているのに何でこんな目に会うのか、私は現代のヨブだと言って嘆く日々でした。奧さんもたいへんでした。手足が動かなければ、服一つ着られませんし、食べるのも困難、手を貸さなければなりません。ある夜中、彼が寝ている所のドアのすき間から、台所が見え、そこで妻があぐらをかいて、一升瓶をかかえて、コップ酒を飲んでいるのでした。眠れないというと友だちに勧められたの始まりだったようです。彼はこれでは自分たちはダメになってしまう、何とかしなければと思い、キリスト教の巡礼に出ます。それは彼の言い方で、キリスト教の集会なら、どこにでも出かけて行くということでした。メッセージは頭でわかるのですが、何か抜け出せない感じでいました。
 それから、妻の友人が陸奥(みちのく)の教会にいるというので、尋ねました。アルコールを飲まないと眠れないことを話すと、友人に「それはダメよ。布団に顔を伏せて必死に祈りなさいよ」と言われました。その途端に、彼女はつっぱていた棒がはずれたように、そこに泣き崩れたのです。しばらくして、友人は「あなたのために苦しみを先立って行かれた方がいるのですよ」と言われました。その時、二人がもだえ苦しんでいたものが消え去り、何とも言えない平安と感謝が心一杯にしていたのです。それからは、お声がかかれば全国どこへでも講演や証詞に行くようになりました。難病という嵐に見舞われたのですが、それ以上に彼らを苦しめたのは「心のガリラヤ湖に嵐がすさ」んだことです。しかし、主イエス・キリストは嵐をしかり、静め、なぎにされたのです。私たちの救いのために十字架の苦難、苦い杯を受けられた方が全身全霊を持って、嵐を巻き起こす風と波をしかりつけられて、私たちの魂をなぎにしてくださるのではないでしょうか。