2011年10月2日 主日礼拝(マタイ福音書7:24-27)岡田邦夫
「また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。」(ヤコブの手紙1:22)
NHKスペシャルで取り上げられた日本でただ一軒、焼き畑農業を続けている農家の婦人の話です。「今なお秘境と言われる宮崎県椎葉村の山奥で、山に火を放ち焼き畑を作る「おばば」椎葉クニ子さん(87)が暮らしている。まず、年老いる前に木を切る。それは椎茸栽培に使う。山火事にならないように火を放ち、消えたらすぐにソバの種を蒔く。焼き灰の肥料がよくきく。2年目はヒエかアワ、3年目はアズキ、4年目は大豆をやる。焼いたことで森は若返り、山菜やきのこなどさまざまな恵みを生み出し、切り株から新芽が出て、しっかり育つ。4年収穫したら26年間放置すると、森は元気に再生する。毎年焼く場所を変えながら少しずつ畑を作り、そして30年周期で山全体を一巡する。かつては誰もが知っていたこと。しかし、今は椎葉クニ子さんだけ。クニ子さんは身の周りにある植物のほとんどを識別し、山のことは何でも知っている人です。人間が自然の循環の一部となって暮らす、見事な知恵がある」。彼女の知恵は生物の体系も気象の循環も、個と全体を、知識においても感覚においても総合的に把握し、30年サイクルの大プロジェクトを行っているという、素晴らしい英知です。私たち日本人はこのような英知を取り戻したいものです。
それも大事なことですが、どうしても必要な英知を持つようにと、主イエス・キリストが山上の説教の最後にたとえで語られました(7:24ー27)。
「だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」
◇人の前の賢い人愚かな人
洪水と暴風が押し寄せても倒れないようにと、自分の家を岩の上に建てた「賢い人」と洪水と暴風が押し寄せてら、ひどい倒れ方をすることを考えないで、自分の家を砂の上に建てた「愚かな人」の対比のたとえです。賢い人と愚かな人の対比です。
イエスと使徒の時代のローマ社会では賢い人々と愚かな人々と分けていました。ローマ人への手紙1:14に出てきます。口語訳ですと「わたしには、ギリシヤ人にも未開の人にも、賢い者にも無知な者(文語「愚なる者」)にも、果すべき責任がある。」です。この「未開の人」は元々はギリシャ語を話さない人という意味の言葉でしたが、やがてギリシャ人が自分たちの考え方や生き方にたいへんな誇りを持ち、そのように生きていない他民族に優越感をいだいたことから、「未開の人」の意味に使われるようになりました。ギリシャ人だけが人間にふさわしい生き方をしているという意識があったようです。これを新改訳では「知識のある人にも知識のない人にも」と訳しています。そのような知識のある人と知識のない人と優劣をつけたり、差別をしたりする風潮は今日の社会においても、あるのではないでしょうか。先進国と後進国とか、学歴がある人とない人とか、違いはあったとしても、優劣をつけることではないと思います。使徒パウロはどちらも差をつけず、どちらにも等しく福音をのべ伝える責任があると言っているのです。
◇神の前の賢い人愚かな人
主イエスがおっしゃるのはそのような人と比較して、賢い人、愚かな人と言っているのではありません。神の前にどうなのかと言っているのです。「土台」というものは必要ですが、見えないものです。人生を建て上げていく時にも土台を岩盤にするか、砂地にするか、見えないことです。イエスのこれらのことばを聞いてそれを行なうことも、イエスのこれらのことばを聞いてそれを行なわないことも見えない部分です。しかし、大きな試練が来た時に、さらには最後の審判がきた時に、建て上げられたものが残るか、全く崩れ、壊れてしまうかが決定的に決まってしまうのです。
昔の人は、人を殺す者はさばきを受けなければならないと言うが、イエスのことばは兄弟に向かって「能なし」とか「ばか者」と言う者は燃えるゲヘナに投げ込まれると見えない部分をも問うものです。この言葉を聞く時、私は人殺しです、十字架の贖いによってお赦しくださいと主に祈り、聖霊によって兄弟を尊敬できるように行うことです。父なる神は隠れたことを見ておられるので、善行も右の手のしていることを左の手に知らせないとか、祈りも自分の奥まった部屋に入り、魂の深層部で祈ることを示され、優先的に実行することです。思い煩うな、まず神の国と神の国を求めよと言われるキリストのことばをそのまま信じて行うのです。「信仰」は「信行」だと思います。警戒すべきは、偽善であると主はくり返し告げています。信じている「つもり」とか、やっているいる「ふり」とかはいけません。聞いて行うというには当然、葛藤があったり、苦闘があったりします。その取り組みが大事なのです。それを突き抜けると実にさわやかで、静かでいい知れない喜びに、聖霊が導いてくださいます。
私は東京の日暮里の小学校にかよっていましたが、美術の授業で、歩いて谷中の墓地を通り抜け、上野の国立西洋美術館に連れて行ってもらうことがありました。それで青年になっても観に行っていました。その本館前庭にはロダンの彫刻「地獄の門」がおかれています。その門の上に「考える人」がいるのです。私には大変印象深いものでした。イエスが言われる洪水と暴風の時、最後の審判の時を考えて生きる人こそ、賢い人です。人生の生まれて、死ぬまでのこと、そこの結果はどうなるか、神の審判の時まで、トータルとして総合的に考え、対処して生きている人こそ、賢い人です。「キリスト・イエスにある者が罪に定めらることは決してありません。」との契約をいただいて、人生まるごと、終わりの日に震われないのだと聖霊によって確信して、そして、みことばに従って生きようとする人こそ、賢い人です。
みことばを聞いて行うというのはそれを語るイエス・キリスト自身に心を向けることであり、その語るお方を信じ、その語るお方に望みをおき、その語るお方を愛して生きることです。イエス・キリストという岩盤に土台をおいて、みことばに従って人生を築いていくなら、最後の洪水の日がきても、「信仰と希望と愛」という家がいつまでも残るのです。椎葉クニ子さんは人が生き延びるために、総合的な英知をもって自然と共生して生きる賢さを教えています。キリスト者は永遠に生き延びるために、総合的な霊知をもって神と共生して生きる賢さを身につけていきましょう。
「また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。」(ヤコブの手紙1:22)
NHKスペシャルで取り上げられた日本でただ一軒、焼き畑農業を続けている農家の婦人の話です。「今なお秘境と言われる宮崎県椎葉村の山奥で、山に火を放ち焼き畑を作る「おばば」椎葉クニ子さん(87)が暮らしている。まず、年老いる前に木を切る。それは椎茸栽培に使う。山火事にならないように火を放ち、消えたらすぐにソバの種を蒔く。焼き灰の肥料がよくきく。2年目はヒエかアワ、3年目はアズキ、4年目は大豆をやる。焼いたことで森は若返り、山菜やきのこなどさまざまな恵みを生み出し、切り株から新芽が出て、しっかり育つ。4年収穫したら26年間放置すると、森は元気に再生する。毎年焼く場所を変えながら少しずつ畑を作り、そして30年周期で山全体を一巡する。かつては誰もが知っていたこと。しかし、今は椎葉クニ子さんだけ。クニ子さんは身の周りにある植物のほとんどを識別し、山のことは何でも知っている人です。人間が自然の循環の一部となって暮らす、見事な知恵がある」。彼女の知恵は生物の体系も気象の循環も、個と全体を、知識においても感覚においても総合的に把握し、30年サイクルの大プロジェクトを行っているという、素晴らしい英知です。私たち日本人はこのような英知を取り戻したいものです。
それも大事なことですが、どうしても必要な英知を持つようにと、主イエス・キリストが山上の説教の最後にたとえで語られました(7:24ー27)。
「だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」
◇人の前の賢い人愚かな人
洪水と暴風が押し寄せても倒れないようにと、自分の家を岩の上に建てた「賢い人」と洪水と暴風が押し寄せてら、ひどい倒れ方をすることを考えないで、自分の家を砂の上に建てた「愚かな人」の対比のたとえです。賢い人と愚かな人の対比です。
イエスと使徒の時代のローマ社会では賢い人々と愚かな人々と分けていました。ローマ人への手紙1:14に出てきます。口語訳ですと「わたしには、ギリシヤ人にも未開の人にも、賢い者にも無知な者(文語「愚なる者」)にも、果すべき責任がある。」です。この「未開の人」は元々はギリシャ語を話さない人という意味の言葉でしたが、やがてギリシャ人が自分たちの考え方や生き方にたいへんな誇りを持ち、そのように生きていない他民族に優越感をいだいたことから、「未開の人」の意味に使われるようになりました。ギリシャ人だけが人間にふさわしい生き方をしているという意識があったようです。これを新改訳では「知識のある人にも知識のない人にも」と訳しています。そのような知識のある人と知識のない人と優劣をつけたり、差別をしたりする風潮は今日の社会においても、あるのではないでしょうか。先進国と後進国とか、学歴がある人とない人とか、違いはあったとしても、優劣をつけることではないと思います。使徒パウロはどちらも差をつけず、どちらにも等しく福音をのべ伝える責任があると言っているのです。
◇神の前の賢い人愚かな人
主イエスがおっしゃるのはそのような人と比較して、賢い人、愚かな人と言っているのではありません。神の前にどうなのかと言っているのです。「土台」というものは必要ですが、見えないものです。人生を建て上げていく時にも土台を岩盤にするか、砂地にするか、見えないことです。イエスのこれらのことばを聞いてそれを行なうことも、イエスのこれらのことばを聞いてそれを行なわないことも見えない部分です。しかし、大きな試練が来た時に、さらには最後の審判がきた時に、建て上げられたものが残るか、全く崩れ、壊れてしまうかが決定的に決まってしまうのです。
昔の人は、人を殺す者はさばきを受けなければならないと言うが、イエスのことばは兄弟に向かって「能なし」とか「ばか者」と言う者は燃えるゲヘナに投げ込まれると見えない部分をも問うものです。この言葉を聞く時、私は人殺しです、十字架の贖いによってお赦しくださいと主に祈り、聖霊によって兄弟を尊敬できるように行うことです。父なる神は隠れたことを見ておられるので、善行も右の手のしていることを左の手に知らせないとか、祈りも自分の奥まった部屋に入り、魂の深層部で祈ることを示され、優先的に実行することです。思い煩うな、まず神の国と神の国を求めよと言われるキリストのことばをそのまま信じて行うのです。「信仰」は「信行」だと思います。警戒すべきは、偽善であると主はくり返し告げています。信じている「つもり」とか、やっているいる「ふり」とかはいけません。聞いて行うというには当然、葛藤があったり、苦闘があったりします。その取り組みが大事なのです。それを突き抜けると実にさわやかで、静かでいい知れない喜びに、聖霊が導いてくださいます。
私は東京の日暮里の小学校にかよっていましたが、美術の授業で、歩いて谷中の墓地を通り抜け、上野の国立西洋美術館に連れて行ってもらうことがありました。それで青年になっても観に行っていました。その本館前庭にはロダンの彫刻「地獄の門」がおかれています。その門の上に「考える人」がいるのです。私には大変印象深いものでした。イエスが言われる洪水と暴風の時、最後の審判の時を考えて生きる人こそ、賢い人です。人生の生まれて、死ぬまでのこと、そこの結果はどうなるか、神の審判の時まで、トータルとして総合的に考え、対処して生きている人こそ、賢い人です。「キリスト・イエスにある者が罪に定めらることは決してありません。」との契約をいただいて、人生まるごと、終わりの日に震われないのだと聖霊によって確信して、そして、みことばに従って生きようとする人こそ、賢い人です。
みことばを聞いて行うというのはそれを語るイエス・キリスト自身に心を向けることであり、その語るお方を信じ、その語るお方に望みをおき、その語るお方を愛して生きることです。イエス・キリストという岩盤に土台をおいて、みことばに従って人生を築いていくなら、最後の洪水の日がきても、「信仰と希望と愛」という家がいつまでも残るのです。椎葉クニ子さんは人が生き延びるために、総合的な英知をもって自然と共生して生きる賢さを教えています。キリスト者は永遠に生き延びるために、総合的な霊知をもって神と共生して生きる賢さを身につけていきましょう。