2011年6月26日 伝道礼拝(2コリント5:14-17)岡田邦夫
「キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。…生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。」2コリント5:14-15
今日、若い時に信仰を持ち、その後、教会から長い間離れ、昨年、教会に来られ信仰を復帰された方の証詞を聞きました。今、畑には黒豆が蒔かれ、芽を出したところですが、新芽を鳥が食べにくるので、畑用のCDをひもにたくさんぶら下げて、はったので、その害は今のところありません。しかし、根切り虫に20本程根を切られれてしまいました。信仰を持って間もないころに、何かのことで、信仰の根をサタンに切られてしまうことがあります。しかし、今日の証詞者は根を切られてなかったようで、長い間の空白があっても、どこかで主につながっていて、すっと教会に帰って来られたのだと思います。
彼の若い時の疑問は「人は何のために生きるのか」という人生の目的でした。それで、イエス・キリストを信じることを通して分かったわけですが、定年を前にして、再び、若い時とは違うものの、同様の「人は何のために生きるのか」の問いをもたれていたので、若き日を思い出し、再度、教会に来られたのでしょう。逆に言いますと、何のために生きるのかという目的がないと人は生きていけないのです。良い学校に入るために、勉強するとか、スポーツにしろ何にしろ、良い結果を出したいために、がんばるとか、さまざまあります。しかし、誰でもが、どういう状況でも、同じ人生の目的があることを、聖書は明示しています。
生まれつきの盲人を見て、弟子がこれは両親のせいか、本人のせいでこうなったのかと、因果応報の理屈で、原因を聞きました。しかし、イエス・キリストは誰のせいでもない、因果応報はない、神のみ業が現れるためだと、人はだれでも、生きる目的をもって、神が生まれさせたのだと答えられました。本来的に世界を造られ、人を造られた創造者の目的があるのです。しかし、人はこの目的にそうことをせず、自己目的に、言い換えれば、神から離れ、自分勝手に生きるようになりました。神に信頼しないで、神なしで生きることを罪と言います。創造者の目的にそわない罪人を滅ぼしてしまおうとするのは当然です。しかし、イエス・キリストはこの私たち、罪人を救うという目的をもって、地上に来られ、十字架にかかられ、罪の贖いをなしとげ、復活され、天上に帰られました。
ですから、私たちの人生の目的は、イエス・キリストを信じ、イエス・キリストのために生きることです。聖書はこう告げています。
「というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(2コリント5:14ー17)。
この教会がこのところで、始められた時に、和田忠三牧師が東京聖書学院に入学する前の一年間、開拓の援助、奉仕をして下さいました。土曜の子供会でも、よくお話をされましたが、その中で、ずっと印象に残るお話しがありました。オスカー・ワイルド(Oscar Wilde)原作の「大男の庭」という物語です。なかなかいい話ですから、聞いていただきたいと思います。その前に、二つの聖書の言葉をお読みしましょう。
「すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』」(マタイ25:40)
「イエスは、彼に言われた。『まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。』」(ルカ23:43)
昔、ある国のお城に、それは愛らしい庭がありました。いつも色とりどりの草花が咲き乱れ、春にはたくさんの桃の木に淡い色の花が咲きました。秋になると、枝はたわわに甘い実をつけます。子どもたちは、毎日その枝で遊ぶのを楽しみにしていました。
しかし、ある日、お城の持ち主の大男が、長い旅から戻ってきました。そして、自分の庭で遊んでいる子どもたちを見ると、カンカンに怒りだしました。「ここで何をしている!出て行け!」。恐ろしい声で怒鳴り散らしたので、子どもたちは逃げていきました。「ここはオレ様だけの場所だぞ」。大男は庭のまわりに高い塀を築いて、「立ち入る者は死刑にする」という立て札を立てました。
その日から急に、お城は冬になってしまいました。国中の木々が花を咲かせる春が来ても、なぜか大男の庭は冬のままです。子どものいない庭には、小鳥も来ません。土からわずかに頭をのぞかせた花のつぼみも、立て札を見ると、あわてて地中に姿を隠してしまいました。お城には雪と氷が居座って、北風が一年じゅう吹き荒れています。その上毎日雹(ひよう)が降って屋根をめちゃくちゃにしてしまいました。「どうしてここには春が来ないんだ」。春だけでなく、夏も、秋もやってきません。「どうして、いつまでも寒いんだ」。
ある朝、大男が目を覚ますと、どこかで小鳥の声が聞こえました。開いた窓からは、かぐわしい香りが漂ってきます。男は飛び起きて、外を見ました。すると、壁のすき間から入り込んだ子どもたちが大勢、庭で遊んでいたのです。庭の木々に子どもたちがよじ登ると、それまで凍り付いていた枝は、うれしそうに花開き、鳥たちも飛んできてさえずります。地面の雪は溶けはじめ、愛らしい草花も暖かな風の中で思い切り背伸びをしています。
ところが、庭のいちばん向こうの隅だけは、まだ冷たい風と雪に閉ざされたままでした。凍りついた木の根元で、小さな男の子が泣いていました。自分も木に登っていっしょに遊びたいのですが、その子は体が小さくて、どんなに手を伸ばしても枝に届きません。凍えそうになりながら泣きじゃくっているのです。大男の心に、突然熱いものがこみあげてきました。「ああ、わたしは何て自分のことしか考えない人間なのだろう」。急いで庭に出ていって、そっとその子を抱き上げ、木の枝に載せてあげました。そのとたん、枝という枝の花がいっせいに開きました。男の子は小さな両腕を大男の首にまわして、うれしそうに笑いました。それを見た子どもたちが庭に戻ってきました。「これから、この庭は君たちのものだよ」。そう言って、大男はまわりの塀を小さな斧で壊しました。
その日、子どもたちは夕方まで大男といっしょに遊びました。子どもたちが家に帰るころ、なぜか、あの男の子の姿だけが見えません。どの子に聞いても、その子がどこに住んでいるか知りません。今まで遊んだことのない子だった、とみんな口々に言いました。それから毎日のように、子どもたちは庭に遊びに来ましたが、あの子は二度と来ませんでした。大男は残念で仕方がありません。あの小さな子が忘れられなかったからです。「何とか、もう一度会いたいなあ」。
そして何年も過ぎました。大男はすっかり歳を取りました。もう子どもたちといっしょに遊べませんが、庭で遊ぶ子どもたちを眺めながら、幸せに暮らしました。ある冬の朝のこと、着替えをしながら庭を見ていた大男は、思わず目をこすりました。庭のいちばん向こうの隅にある木だけが、美しい満開の花をつけているのです。枝は金色に輝き、銀色の実がなっています。その木の下には、あの小さな男の子が立っているではありませんか。
大喜びで木のそばに走ってきた大男は、男の子を間近に見て、叫びました。「何というひどい傷!いったいだれがそんなひどいことを!」。その子の両手と両足には、釘で打ち抜いた無残な傷があったのです。大男は怒りにふるえました。「そんなやつは、私がただではおかない!」。「いいえ、これはわたしが愛のゆえに受けた傷です」。その時、不思議な畏(おそ)れが男を包みました。「あなたはいったいどなたですか」。そう言いながら、大男はこの子の前にひざまずいていました。すると、その子は微(ほほ)笑(え)んで言いました。「かつてあなたは、わたしをあなたの庭で遊ばせてくれました。今日はあなたが、わたしと一緒にわたしの庭(パラダイス)へ来る番です」。
その日の午後、子どもたちがいつものように庭にやってくると、男は、あの木の下で白い花に埋もれて、安らかに眠っていたということです。
人は誰のために生きるのかが重要です。イエス・キリストは私のために生き、死に、よみがえられたのです。ですから、私もこのお方のために生き、それは具体的には最も小さい者のために生きるのです。それは主の愛の中に生きるということです。「キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。…生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。」2コリント5:14-15
「キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。…生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。」2コリント5:14-15
今日、若い時に信仰を持ち、その後、教会から長い間離れ、昨年、教会に来られ信仰を復帰された方の証詞を聞きました。今、畑には黒豆が蒔かれ、芽を出したところですが、新芽を鳥が食べにくるので、畑用のCDをひもにたくさんぶら下げて、はったので、その害は今のところありません。しかし、根切り虫に20本程根を切られれてしまいました。信仰を持って間もないころに、何かのことで、信仰の根をサタンに切られてしまうことがあります。しかし、今日の証詞者は根を切られてなかったようで、長い間の空白があっても、どこかで主につながっていて、すっと教会に帰って来られたのだと思います。
彼の若い時の疑問は「人は何のために生きるのか」という人生の目的でした。それで、イエス・キリストを信じることを通して分かったわけですが、定年を前にして、再び、若い時とは違うものの、同様の「人は何のために生きるのか」の問いをもたれていたので、若き日を思い出し、再度、教会に来られたのでしょう。逆に言いますと、何のために生きるのかという目的がないと人は生きていけないのです。良い学校に入るために、勉強するとか、スポーツにしろ何にしろ、良い結果を出したいために、がんばるとか、さまざまあります。しかし、誰でもが、どういう状況でも、同じ人生の目的があることを、聖書は明示しています。
生まれつきの盲人を見て、弟子がこれは両親のせいか、本人のせいでこうなったのかと、因果応報の理屈で、原因を聞きました。しかし、イエス・キリストは誰のせいでもない、因果応報はない、神のみ業が現れるためだと、人はだれでも、生きる目的をもって、神が生まれさせたのだと答えられました。本来的に世界を造られ、人を造られた創造者の目的があるのです。しかし、人はこの目的にそうことをせず、自己目的に、言い換えれば、神から離れ、自分勝手に生きるようになりました。神に信頼しないで、神なしで生きることを罪と言います。創造者の目的にそわない罪人を滅ぼしてしまおうとするのは当然です。しかし、イエス・キリストはこの私たち、罪人を救うという目的をもって、地上に来られ、十字架にかかられ、罪の贖いをなしとげ、復活され、天上に帰られました。
ですから、私たちの人生の目的は、イエス・キリストを信じ、イエス・キリストのために生きることです。聖書はこう告げています。
「というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(2コリント5:14ー17)。
この教会がこのところで、始められた時に、和田忠三牧師が東京聖書学院に入学する前の一年間、開拓の援助、奉仕をして下さいました。土曜の子供会でも、よくお話をされましたが、その中で、ずっと印象に残るお話しがありました。オスカー・ワイルド(Oscar Wilde)原作の「大男の庭」という物語です。なかなかいい話ですから、聞いていただきたいと思います。その前に、二つの聖書の言葉をお読みしましょう。
「すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』」(マタイ25:40)
「イエスは、彼に言われた。『まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。』」(ルカ23:43)
昔、ある国のお城に、それは愛らしい庭がありました。いつも色とりどりの草花が咲き乱れ、春にはたくさんの桃の木に淡い色の花が咲きました。秋になると、枝はたわわに甘い実をつけます。子どもたちは、毎日その枝で遊ぶのを楽しみにしていました。
しかし、ある日、お城の持ち主の大男が、長い旅から戻ってきました。そして、自分の庭で遊んでいる子どもたちを見ると、カンカンに怒りだしました。「ここで何をしている!出て行け!」。恐ろしい声で怒鳴り散らしたので、子どもたちは逃げていきました。「ここはオレ様だけの場所だぞ」。大男は庭のまわりに高い塀を築いて、「立ち入る者は死刑にする」という立て札を立てました。
その日から急に、お城は冬になってしまいました。国中の木々が花を咲かせる春が来ても、なぜか大男の庭は冬のままです。子どものいない庭には、小鳥も来ません。土からわずかに頭をのぞかせた花のつぼみも、立て札を見ると、あわてて地中に姿を隠してしまいました。お城には雪と氷が居座って、北風が一年じゅう吹き荒れています。その上毎日雹(ひよう)が降って屋根をめちゃくちゃにしてしまいました。「どうしてここには春が来ないんだ」。春だけでなく、夏も、秋もやってきません。「どうして、いつまでも寒いんだ」。
ある朝、大男が目を覚ますと、どこかで小鳥の声が聞こえました。開いた窓からは、かぐわしい香りが漂ってきます。男は飛び起きて、外を見ました。すると、壁のすき間から入り込んだ子どもたちが大勢、庭で遊んでいたのです。庭の木々に子どもたちがよじ登ると、それまで凍り付いていた枝は、うれしそうに花開き、鳥たちも飛んできてさえずります。地面の雪は溶けはじめ、愛らしい草花も暖かな風の中で思い切り背伸びをしています。
ところが、庭のいちばん向こうの隅だけは、まだ冷たい風と雪に閉ざされたままでした。凍りついた木の根元で、小さな男の子が泣いていました。自分も木に登っていっしょに遊びたいのですが、その子は体が小さくて、どんなに手を伸ばしても枝に届きません。凍えそうになりながら泣きじゃくっているのです。大男の心に、突然熱いものがこみあげてきました。「ああ、わたしは何て自分のことしか考えない人間なのだろう」。急いで庭に出ていって、そっとその子を抱き上げ、木の枝に載せてあげました。そのとたん、枝という枝の花がいっせいに開きました。男の子は小さな両腕を大男の首にまわして、うれしそうに笑いました。それを見た子どもたちが庭に戻ってきました。「これから、この庭は君たちのものだよ」。そう言って、大男はまわりの塀を小さな斧で壊しました。
その日、子どもたちは夕方まで大男といっしょに遊びました。子どもたちが家に帰るころ、なぜか、あの男の子の姿だけが見えません。どの子に聞いても、その子がどこに住んでいるか知りません。今まで遊んだことのない子だった、とみんな口々に言いました。それから毎日のように、子どもたちは庭に遊びに来ましたが、あの子は二度と来ませんでした。大男は残念で仕方がありません。あの小さな子が忘れられなかったからです。「何とか、もう一度会いたいなあ」。
そして何年も過ぎました。大男はすっかり歳を取りました。もう子どもたちといっしょに遊べませんが、庭で遊ぶ子どもたちを眺めながら、幸せに暮らしました。ある冬の朝のこと、着替えをしながら庭を見ていた大男は、思わず目をこすりました。庭のいちばん向こうの隅にある木だけが、美しい満開の花をつけているのです。枝は金色に輝き、銀色の実がなっています。その木の下には、あの小さな男の子が立っているではありませんか。
大喜びで木のそばに走ってきた大男は、男の子を間近に見て、叫びました。「何というひどい傷!いったいだれがそんなひどいことを!」。その子の両手と両足には、釘で打ち抜いた無残な傷があったのです。大男は怒りにふるえました。「そんなやつは、私がただではおかない!」。「いいえ、これはわたしが愛のゆえに受けた傷です」。その時、不思議な畏(おそ)れが男を包みました。「あなたはいったいどなたですか」。そう言いながら、大男はこの子の前にひざまずいていました。すると、その子は微(ほほ)笑(え)んで言いました。「かつてあなたは、わたしをあなたの庭で遊ばせてくれました。今日はあなたが、わたしと一緒にわたしの庭(パラダイス)へ来る番です」。
その日の午後、子どもたちがいつものように庭にやってくると、男は、あの木の下で白い花に埋もれて、安らかに眠っていたということです。
人は誰のために生きるのかが重要です。イエス・キリストは私のために生き、死に、よみがえられたのです。ですから、私もこのお方のために生き、それは具体的には最も小さい者のために生きるのです。それは主の愛の中に生きるということです。「キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。…生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。」2コリント5:14-15