オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

きょうは良いおとずれの日

2011-06-05 07:00:00 | 礼拝説教
2011年6月5日 主日礼拝(2列王記6:24-7:20)岡田邦夫

「私たちのしていることは正しくない。きょうは、良い知らせの日なのに、私たちはためらっている。もし明け方まで待っていたら、私たちは罰を受けるだろう。さあ、行って、王の家に知らせよう。」(2列王記7:9)

 教会で借りている畑で、この6月は玉ねぎの収穫期です。野菜の良い収穫を得るコツはその野菜に応じた追肥だと言われています。玉ねぎの場合、肥料が足りないと育ちが悪いので、冬から春にかけて化成肥料を3回にわけて施します。しかし、ある程度大きくなったら、土に溶けた肥料で十分なので、追肥してはいけないのです。肥料をやり過ぎるととうが立ち、固くなってしまうことがあります。ようするに、早すぎず、遅すぎず、多くもなく、少なくもなく、ちょうど良い追肥が必要で、そこが難しいところですが、教えられます。私たちの「食」というのもちょうど良さが原則だと思わされます。

◇こうしていることは正しくない。飢餓の中で
 ところが、今日の聖書では、イスラエル王国の首都サマリヤが飢餓と戦争が重なって大変な状況になっていましたことが記されています。食料を奪っていく、略奪隊のようなものではなく、本格的な戦争で、アラム王国の全軍がサマリヤにやって来て、町を包囲したのです。そのころ、ひどいききんがあって、食料が底をつき、しかも、包囲されていて、食料を買いにいけない最悪の状況。イスラエルの国王が城壁の上を通りかかると、ひとりの女性が「王さま。お救いください。」と叫んだので、どうしたのか尋ねると、この最悪の飢餓状況を端的に伝える言葉が返ってきました。聖書にはこう書いてあります。「この女が私に『あなたの子どもをよこしなさい。私たちはきょう、それを食べて、あすは私の子どもを食べましょう。』と言ったのです。それで、私たちは、私の子どもを煮て、食べました。その翌日、私は彼女に『さあ、あなたの子どもをよこしなさい。私たちはそれを食べましょう。』と言ったのですが、彼女は自分の子どもを隠してしまったのです」(6:28ー29)。
 実に悲惨で、聞くに堪えないことです。子どもを食べるなど、絶対してはならないことですが、極限の飢餓状態では、動物としての人間はそうなる可能性があるのでしょう。それを止めるのは良心であり、神意識です。
 しかし、これを聞いた王は自分の服を引き裂いて、嘆き、こう言うのです。「きょう、シャファテの子エリシャの首が彼の上についていれば、神がこの私を幾重にも罰せられますように」(6:31)。神の民を守るために、預言者がいるはずなのに、国家存亡の最悪の事態を招いている。以前、略奪隊が来た時にそれを全滅させるチャンスがあったのに、飲み食いさせて、生かして帰してしまったから、今、アラム軍に包囲されている。すべて、エリシャのせいだ。処罰しようというものです。神の人を殺そうとするなど、大きく道にはずれています。人は窮地に立たされると、人のせいにしたり、神の器を責めたりすることがあります。そういう時はとにかく祈るのです。

◇こうしていることは正しくない。み言葉の前で
 エリシャは王が首をはねに人を遣わすというのはお見通しで、使者が来たら、戸をしめ、戸を押してもはいれないようにしたのです。使者が着くとこう告げます。「主のことばを聞きなさい。主はこう仰せられる。『あすの今ごろ、サマリヤの門で、上等の小麦粉一セアが一シェケルで、大麦二セアが一シェケルで売られるようになる。』」(7:1)。この飢饉でインフレもひどく、食べてはならないろばの、しかも好んで食べることのない頭に高値がつき、また、それが食べるためか、燃料にするためかわからないが、わずかな鳩の糞も銀貨で売られていたほどでした。しかし、預言者はあすの今ごろは小麦粉、大麦が安く手に入るようになると預言したのです。比較してみましょうか。
 いま:ろばの頭1つが銀80シェケル、鳩の糞約0.3リットルが銀5シェケル(6:25)
 あす:上等の小麦粉約7.7リットルが1シェケル、大麦約15.4リットルが1シェケル
 この預言者の言葉を王がその腕に寄りかかっていた侍従は信じられないで「たとい、主が天に窓を作られるにしても、そんなことがあるだろうか。」とあざけります。ここで彼は言ってはならないことを言ってしまったのです。それが自分に返ってくることを告げられます。「確かに、あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べることはできない。」(7:2)。子を食べた女たちに対しても、神の人を殺そうとした王に対しても、エリシャは裁いてはいません。神の救いの言葉を拒絶した侍従には裁きが言い渡されました。「人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。」とイエスが言われたことを私たちは覚えなければなりません(マルコ3:28-29)。

◇こうしていることは正しくない。良心の前で
 このあとの話は面白いです。重い皮膚病を患っているために、町に入ることが法で禁じられていた4人が町の門の入口におりました。いわば、社会に見捨てられたような者たちですが、彼らがサマリヤを救う担い手になるのですから皮肉で、不思議な話です。町はききんだから、町に入っていけば死ぬし、ここに座っていても死んでしまう。アラムの陣営に入り込み、生かしてくれれば、もうけものだし、殺されても、どうせ死ぬのだからと覚悟を決めます。夕暮れになって、アラムの陣営の端まで来まっした。ところが、何とだれもいないのです。主がなしてくださった救いのみ業とは気付いていません。「主がアラムの陣営に、戦車の響き、馬のいななき、大軍勢の騒ぎを聞かせられたので、彼らは口々に、『あれ。イスラエルの王が、ヘテ人の王たち、エジプトの王たちを雇って、われわれを襲うのだ。』と言って、夕暮れになると、彼らは立って逃げ、彼らの天幕や馬やろば、すなわち、陣営をそのまま置き去りにして、いのちからがら逃げ去ったのであった」(7:6-7)。彼らは天幕に入り、飲み食いし、それから、物色し、銀や金や衣服を持ち出し、それを隠しに行ったのです。
 しかし、4人は良心がとがめ、話し合います。「私たちのしていることは正しくない。きょうは、良い知らせの日なのに、私たちはためらっている。もし明け方まで待っていたら、私たちは罰を受けるだろう。さあ、行って、王の家に知らせよう」(7:9)。4人は引き返し、門衛にこのことを報告します。門衛たちが王に告げるのですが、王は私たちをおびき出す、敵の策略に違いないと言って信じてくれません。しかし、家来の一人がだれかに馬5頭をとらせ、偵察してみましょうと提案します。王はそれを受けとめ、偵察の命令を出します。遣わされた使者たちはアラム軍のあとを追って、ヨルダン川まで行きました。使者たちが見た光景は重い皮膚病の4人の報告どおりで、道は至る所、アラム軍があわてて逃げるとき捨てていった衣服や武具でいっぱいでした。使者たちは帰って、見たままを王に報告しました。それから、民は町を出て行き、アラム軍の残していったものを手にしました。こんな不思議な方法で、戦わずして、戦利品をいただいたのです。飢餓から救われたのです。そして、「主のことばのとおり、上等の小麦粉一セアが一シェケルで、大麦二セアが一シェケルで売られ」るように、食料物価が一気に安くなったのです(7:16)。
 前述のエリシャの預言の言葉、言い換えれば、神の救いの言葉を信じようせず、否定した侍従が悲しい最期をとげてしまいます。「王は例の侍従、その腕に王が寄りかかっていた侍従を門の管理に当たらせたが、民が門で彼を踏みつけたので、彼は死んだ。王が神の人のところに下って行ったとき話した神の人のことばのとおりであった」(7:17)。聖書はこのことをていねいに繰り返して記述して、私たちに何かを伝えようとしています。結局、死んだのは神の人の言葉を侮った侍従だけでした。神の言葉を侮ってはいけないということ、逆に、神の言葉は真実であり、必ず、実現するということが強調されているのです。

 重い皮膚病の4人はこの時、食料を得られただけでなく、金持ちになれる千載一遇(せんざいいちぐう)のチャンスだったかも知れませんが、良心の声に聞き従いました。「私たちのしていることは正しくない。きょうは、良い知らせの日なのに、私たちはためらっている。もし明け方まで待っていたら、私たちは罰を受けるだろう。さあ、行って、王の家に知らせよう。」と言って、行動に移したのです。「きょうは、良い知らせの日」(a day of good news)と認識したことが重要なのです(7:9)。聖書では王が子どもを食べた話を聞いた時、服を切り裂いたことが(6:30)、“きょうは、悪い知らせの日”と言っているかのようで、対比して見えます。悪い知らせの日から良い知らせの日へのどんでん返しの神の救いは見事です。戦わずして敵を撃退し、敵のおいていった食料で飢餓から救われるという、二重の救いが起こったのです。
 私たちも二重の救い(罪と死からの解放、永遠の命の付与)というイエス・キリストの福音の良い知らせを今日という日に伝えるのにためらってはいないでしょうか。「つかわされなくては、どうして宣べ伝えることがあろうか。『ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は』と書いてあるとおりである」(ローマ10:15口語訳)。イエス・キリストの恵みが、神の愛が、聖霊の慰めが押し出して、私たちを麗しいものにしてくださるでしょう。