オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

エレミヤの召命

2011-06-19 00:00:00 | 礼拝説教
2011年6月19日 主日礼拝(エレミヤ1:1-19)岡田邦夫・於みのお泉教会


 主はみ手を伸べて、わたしの口につけ、主はわたしに言われた、「見よ、わたしの言葉をあなたの口に入れた。」エレミヤ書1:9口語

 「無人島に持っていく一曲は何か」と質問があったときによく出てくる答がバッハのマタイ受難曲だと言われています。曲としては新聖歌114「血潮したたる主のみかしら」によって多くの人々に知られています(聖歌155ではハスラー作曲、バッハ編曲)。その受難曲の中で、「あなたがたが知っている通り、二日の後には過越しの祭りになるが、人の子は十字架につけられるために引き渡される」の十字架という言葉のところで、「十字架音程」
というのを使っているのです。楽譜を見ると、音2つずつを結ぶと線が交錯して十字架が現れるというものです。しかもシャープが4つもついているのはシャープがドイツ語で十字架(Kreuz)だからです。ただ聞いてるだけでは分からないが、分かる人には分かるという仕掛けがあるようです。バッハは音楽を立体的に表現しようとしたのでしょう。
 聖書に出てくる預言者は単に未来を予告するという直線的なことではなく、それだからとただ警告するという平面的なものではなく、神による民の救いという立体的な使信を伝えているのです。それをよく表しているものの一つがエレミヤ書1章です。

◇前の、前から
 エレミヤはアナトテにいた祭司。神と民の間に立つ仲保者の役割を担っていました。この時代は激動期、小国ユダは迫り来る大帝国に飲み込まれようとしている危機の時でした。その様な時だからこそ、神がエレミヤに臨んだのです。ユダの王ヨシヤの治世の十三年に「主の言葉がエレミヤに臨んだ。」とあり、「主の言葉がわたしに臨んで言う、」と繰り返されます(1:2、4)。上から下に臨む、あるいは彼方から此方に臨むということです。しかも、「わたしはあなたをまだ母の胎につくらないさきに、あなたを知り、あなたがまだ生れないさきに、あなたを聖別し、あなたを立てて万国の預言者とした。」という主の言葉ですから、驚きです(1:5)。祭司になる前から、物心つく前から、しゃべり始める前から、いや、生まれる前から、神が選び、聖別していたというのです。この危機の時代を見越して、希望の預言者として、命を与えたのです。その密かなるご計画をエレミヤが知ることができたというのも、決して勝手な思い込みではなく、聖霊の業だ思います。
 しかも、万国の預言者として立てられたという、世界的な広がりがあるのです。小さな国の一人の祭司に何が出来るというのか、どこにそんな資格や権限があるというのか、しかも、若い。何が出来るというのか。しかし主はこう、きっぱり言われたのです。「あなたはただ若者にすぎないと言ってはならない。だれにでも、すべてわたしがつかわす人へ行き、あなたに命じることをみな語らなければならない。彼らを恐れてはならない、わたしがあなたと共にいて、あなたを救うからである」(1:7-8)。神が共にいて出来る話です。神が臨み、神が召し、神が共におられるから、万国の預言者となれるのです。牧師、伝道者もそうでなければ、思いだけでは出来ませんが、召しがあるから、助けられて出来るわけです。
 ルターは宗教改革の原理として、「聖書のみ」「信仰のみ」をあげましたが、「万人祭司」をあげました。使徒たちは「終りの時には、わたしの霊をすべての人に注ごう。…あなたがたのむすこ娘は預言をし、若者たちは幻を見、老人たちは夢を見、…僕たちも預言をするであろう。」のヨエル書の預言は成就したと言っています(使徒2:17-18)。そうすると、「万人預言者」ということです。宣教師、牧師だけでなく、広い意味で、私たちのすべてが「万国の預言者」として召されているのです。神の国からこの世の国に遣わされた大使なのです。神のお言葉を預かって届けるのです。若者にすぎない、学のない者にすぎない、口べたな者にすぎない、魅力のない者にすぎない、性格が良いとは思えない者にすぎない…などと言ってはならないのです。「だれにでも、すべてわたしがつかわす人へ行き、あなたに命じることをみな語らなければならない。彼らを恐れてはならない、わたしがあなたと共にいて、あなたを救うからである」と約束していてくださるのです。

◇先の、先を
 神の言葉は与るものであり、預かるものです。そして、それは命の言葉です。今や情報化社会で、情報はあふれています。しかし、それにまさる情報は私たちのからだにあり、細胞にあります。遺伝子情報、DNAです。それが命をつくり、成長させるという、ある意味の生きた言葉です。「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。…この言に命があった。」とあります。エレミヤは命の言葉を口に入れられたのです。「見よ、わたしの言葉をあなたの口に入れた。見よ、わたしはきょう、あなたを万民の上と、万国の上に立て、あなたに、あるいは抜き、あるいはこわし、あるいは滅ぼし、あるいは倒し、あるいは建て、あるいは植えさせる」(1:9-10)。命の躍動、命の活動が起こってくるのです。
 次のやりとりが面白いです。新共同訳でみてみましょう(1:11ー12)。
 「主の言葉がわたしに臨んだ。『エレミヤよ、何が見えるか。』わたしは答えた。『アーモンド(シャーケード)の枝が見えます。』主はわたしに言われた。「あなたの見るとおりだ。わたしは、わたしの言葉を成し遂げようと見張っている(ショーケード)。』」。告げられた御言葉、信じた御言葉、伝えた御言葉は、種が命の情報に従って、芽を出し、成長し、葉が茂り、豊かな実を結ぶように、時が来ると必ず成就するのです。それを農夫が見守るように、神が御言葉の成就を見張っているのです。御言葉が虚しく流れ去ったり、虚しくなったりはしないのです。ここに御言葉の命の構図があるのです。

 再び、「あなたは何を見るか」。「煮え立っているなべを見ます。北からこちらに向かっています」。というやりとりです。煮え立っているなべは北の国々であり、バビロン帝国です。なべを持っているのは主なる神です。歴史の必然として、ユダがバビロンに敗北するというのではないのです。預言はこうです。「見よ、わたしは北の国々のすべての民を呼ぶ。彼らは来て、エルサレムの門の入口と、周囲のすべての城壁、およびユダのすべての町々に向かって、おのおのその座を設ける。わたしは、彼らがわたしを捨てて、すべての悪事を行ったゆえに、わたしのさばきを彼らに告げる。彼らは他の神々に香をたき、自分の手で作った物を拝したのである」(1:15ー16)。エレミヤにはこの裁きのメッセージを伝えるように命じます。しかし、同時に、希望の預言(29章)、再建の預言(31章)も託されます。31:28を見ると、「かつてわたしが、引き抜き、引き倒し、こわし、滅ぼし、わざわいを与えようと、彼らを見張っていたように、今度は、彼らを建て直し、また植えるために見守ろう。」とあるのです(新改訳)。
 神はエレミヤに先の先まで、立体的に見せたように、私たちにも、聖霊によって幻を見させているのです。セザンヌの描いた山の絵があります。彼は印象派と言われています。その山は遠近方でいうより、あるいは写真で撮った山よりも大きく描いているのです。なぜなら、人の目というのはよくできていて、遠くても大きいものは大きく見えるように、調整して見ているのです。大きいものが小さく感じてはいけないので、現実をきちんと認識できるように神がお造りになったのです。セザンヌは山を見た印象のままを絵にしたのです。
 私たちは広い意味で預言者として召されているなら、人生の先の先、世の先の先、大山の裁きと救いを神は見せてくれるのです。「何を見るか」と。印象派の画家のように、その見たままを、告げられた預言の言葉を信じ、伝えていく者でありましょう。