ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

空手道ビジネスマンクラス練馬支部 夢枕獏

2017-05-02 13:49:00 | 

時として考えるより、行動したほうがイイ場合ってあると思う。

うだうだと悩むのは、傍からみれば馬鹿らしく見えることは分かる。でも、当人は真剣に悩んでいる。そして、いくら悩んでも、答えが見つからないことの方が多い。

そんな時、私はよく歩いた。子供の頃から、よく歩く子供だった。自転車があっても、敢えて歩くことも良くあった。ただ、ひたすら歩くだけだ。歩きながら、いろいろと考える。

無心で歩くなんて、私には無理だった。クダラナイ妄想にふけったり、どうでもいいことばかり考えていたように思う。本来、悩むべき深刻な問題は、とりあえず棚上げして、ただ好き勝手考えながら歩いていた。

3時間から5時間も歩くと、さすがに疲れてくる。行くあてもなく歩き出したとしても、夕食までには帰宅できるように、上手く調整して歩いていた。だから、クタクタで帰宅すると、丁度夕食が待っている寸法である。

シャワーがない我が家では、銭湯に行くか、家の風呂でカラスの行水で済ませて、さっぱりして食卓に着く頃には、悩みはどこかに仕舞い忘れている。そして、空腹を満たして幸せな気分に陥った私は、悩みのことなんて、さっぱり忘れて床に就く。

悩んだ時は、身体を動かす。それが私のやり方であった。やがて山に登るようになると、登山こそが悩みからの苦しみから逃避出来る、最適の方法になっていた。

もちろん、悩みの大元はさっぱり解決していない。でも、すっきりした気分で、悩み事に正対すると、新たな解決法が出てくる場合もある。なによりも、悩みに向かう心の持ちようが違っている。

だから20代初めに難病のために健康を失ったことは、私にとって最大の喪失であった。もう、山に登れない!

でも、楽天的な私である。山に登れなくても散歩は出来る。削げ落ちた体力を回復させるため、自宅から井之頭公園まで歩き、吉祥寺で古本屋を散策する。その後、西荻まで歩き、これまた古本屋巡りをして、自宅まで歩いて帰る。

病み衰えた身体には苦行に等しかったが、布団の中でウダウダと悩み、苦しむよりも、この身体を動かす苦痛のほうが遥かに楽しかった。もっとも、安静が一番大事な治療法なので、この散歩は体調がいい時にしかやらなかった。

もしかしたら、散歩もせず、ひたすら横になって寝ているほうが病気には良かったかもしれない。でも、それだと私は狂っていたように思う。ただ、寝ているだけなのに、脳裏を駆け巡るは苦しみばかり。悩んで、悲観して、恨んで、憎む。このほうが、はるかに辛かった。

だから、可能な限り私は歩いていた。座って悩むより、歩きながら悩むほうがイイと思っている。

あの頃、散歩の最中に見かけたのが、高速道路下のムエタイの青空道場であった。ちなみにムエタイとは、タイの格闘技で、昔はタイ式キックボクシングと称されたこともある。

相撲が日本式レスリングでないのと同様、ムエタイはムエタイである。打撃系の格闘技では世界最強を詠われる。

初老のタイ人の人がコーチで、若い日本人たちが引き締まった身体で、トレーニングに励んでいた。私は遠くから、それを見詰めるだけであった。

率直に言って、羨ましかった。散歩さえままならぬ吾が身を呪った。子供の頃、母に空手や柔道に通うかと訊かれたことがあったが、私は怖くて断わっていた。

でも、正直後悔している。格闘技は体で覚えるものだ。出来るだけ若い時に始めるべきものだ。身体に沁みついた格闘技の動きは、大人になってからも決して忘れない。

私が真面目に格闘技をやったのは、中学の時の柔道だけだ。それも、部活ではなく、放課後の公園であった。そこで浮「技をいくつか教わった。ボクシングも少し齧ったが、分かったのは私には闘争心が欠けていることであった。

空気を切り裂くようなキックの練習をしている若者たちを見詰めながら、私はなぜ若い時に格闘技をやらなかったのかと真剣に悔やんだものだ。20代半ばではあったが、私は気が付いていた。

格闘技の習得で身に付くのは、技術だけではない。一番大切なのは、心構えだ。

これは理屈ではない。道理でもない。厳しい修練を通じ、身体を鍛え、痛めつけ、苦痛と苦悩のなかから生み出されるのが心構えだと思う。

私は山に登り、自然と対峙することで、人の弱さを思い知らされた。その弱さの克服には、心と体を鍛えることが必要なのだと痛感していた。山登りは登る苦しみから逃れられない。格闘技は肉体的痛みから逃れられない。

どちらも、その辛さから逃げずに堪えこそ、心と体を鍛えることが可能になる。今なら、それが分かる。でも、私は山に登ることも、格闘技で鍛えることも出来ない。病んだ身体がそれを許さないからだ。

あのムエタイの青空道場は、いつのまにやら消滅してしまったが、私の心には、いつか身体を鍛えたいとの思いは、今も残っている。でも、その機会がなかった。

表題の作品で描かれる主人公も、格闘技とは無縁の半生を送りながら、ある事件がきっかけで空手の道場に通うようになる。私に、もう少し健康な体があったのなら、私も通いたいよ。

なんだか、とても悔しい。多分、ないものねだりだとは分かっているけど、人ってどうしても隣の芝生は綺麗に見えるらしい。そんな自分の未熟さを感じてしまったことが、とても悔しいのです。

コメント (2)
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