法治国家にとって最大の敵は、内部に発生する法制外の存在が実権を握ることである。
具体的な例を挙げると、戦前の日本における陸軍の三長官(陸軍大臣、参謀総長、教育総監)会議であろう。陸軍の将官任命は、この三長官会議の合意によって決まることが、大正時代より慣例として確立されていた。
つまり、この三長官会議の同意がなければ、陸軍大臣は任命されず、組閣が出来ないこととなる。組閣が出来ない総理大臣は、内閣を作れず、最悪辞任に追い込まれる。これを利用して陸軍は政府に強い干渉力を持ってしまった。ちなみに、この三長官会議は慣習的なもので、法令等により認められたものではない。
私は、戦前の政府が大陸から適切に撤退できなかったのは、この三長官会議を利用して陸軍が大陸での権益確保に走ったことが、大きな要因だと考えている。
恐ろしいのは、この三長官会議を誰も規制できなかったがゆえに、政府は機能不全を起こしてしまったことで、私はこれを文民統制の失敗だと判じている。
法制外の存在が、政府に強い影響力を持つことが、どれほど恐ろしいかの実例である。戦争の反省を口にするなら、せめてこの位の知識は持って欲しいものである。
ところで、この一世紀以上にわたり、世界の覇権を握ってきた超大国がアメリカである。
そのアメリカにおける大統領の配偶者、すなわちファースト・レディの存在を、どう考えたらよいのであろうか。まず、ファースト・レディとは、公職ではない。アメリカの法令においても規定される存在でもない。
しかしながら、その存在感は圧倒的であり、法制上の地位ではないにも関わらず、事実上大統領を補佐する立場にある。そして、ボランティアなどの奉仕的な役割を担う存在でもある。
幸いアメリカは強力な三権分立を確立しており、更にはファースト・レディは軍事上の役割を担うことはない。だからこそ、安心できるのだが、それでも無視できる存在ではない。
そのアメリカのファースト・レディとして最も著名な一人であるジャックリーヌ・ケネディを主役に置いた映画が表題の作品だ。あのダラスの暗殺事件において、脳を吹き飛ばされたケネディ大統領の傍らにいた悲劇のご婦人である。
ホワイトハウスに初めてファースト・レディ用の執務室を設置した人物であり、ケネディ大統領の葬儀に関しても、多大な影響力を行使した人物でもある。
私はこの映画がなにを言いたいのか、あるいは伝えたいのか、よく分からない。悲劇のヒロインを描いたようにも思うし、ファースト・レディの立場の難しさ、厳しさを伝えた映画にも思えた。
でも、ある種の倦怠感を感じたと同時に、ファースト・レディの怖さも感じた。ちなみに、ヨーロッパの議会制民主主義を採る国では、首相あるいは大統領の配偶者に留めて、政府から切り離す方向に向いている。たぶん、そのほうが健全なのだろうと思う。
もっとも我が国では、安倍首相の奥さんの出たがりぶりが、野党から安倍叩きに利用されているようだ。権力者の配偶者とは、実に曖昧な存在である。法制上の地位を持たないにも関わらず、政治的な影響力を強く持つ配偶者を、このまま慣例的に放置していいのか、私はけっこう不安に思っています。