のろや

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『ホーリー・モーターズ』2

2013-07-09 | 映画
『ホーリー・モーターズ』1 - のろや の続きでございます。

「動きの記録」ということへの照準は、前の記事で映画へのオマージュと呼んだものの一端でございます。
パンフによると本作には、カラックス監督の自作を含めた過去の名作映画への言及とおぼしき部分が多数あるそうなのですが、ワタクシは他のカラックス作品を観ていないこともあり、せいぜいゴジラのテーマ曲と『顔のない目』のマスクくらいしか分かりませんでした。
それでも(あるいは、だからこそ)、映画という娯楽/芸術そのものに対する、監督のちょっと斜に構えつつの愛と讃辞とを、その絵から、語りから、しみじみと感じることでございました。

斜に構えつつと申しますのは、オスカーが演じる/生きる11の生というのが、キャラクター造形、見かけ上のシチュエーション、そしてセリフから音楽に至るまで、いかにも、いかにも、いかにも映画的な記号に溢れていて、言ってしまえば「ベタ」であり、その分ちょっぴり空虚だからでございます。
いさかい相手のもとにナイフ片手に乗り込んで行くやくざ者、死を前にした告白、帰りの車の中でばれる娘の嘘、20年ぶりに再開してつかの間の思い出に浸るもと恋人たち、美女と野獣、などなど。とりわけ「美女と野獣」であるところのメルドのパートは、端役までもわざとのわざとらしさに満ち満ちていて、ワタクシ大好きでございます。



こうしてわざと採用された紋切り型には、映画の語りに対するいささかの皮肉をも感じるわけでございますが、そこで繰り広げられる演技や絵作りは全く真摯かつハイクオリティでございまして、高まる緊張感であるとか、メランコリックな雰囲気であるとか、ほろ苦い感傷といった、そこで演出されるべきものがニクイばかりにばっちりと表現されており、しかも絵がやたらときれいだったりして、映画いいとこ詰め合わせの感がございます。
つまるところ、私たちは映画を見て感動するにも、ワクワクするにも、紋切り型というものをある程度必要とするのでございます。

もっとも本作では、セリフまでもがいかにも感に溢れている上に、本来持つべき文脈(その場面の背景をなすはずの物語)からは切り離されているため、シリアスなシーンであればあるほど虚しさが際立ち、それが時には滑稽なほどなのですが、これもまたわざとのことでございましょう。

そうして紋切り型(すなわち、送り手と受け手との間の了解事項、安心要素)をふまえつつ、各エピソードには観客の意表をつく展開が用意されております。
それは突然の静謐な美であったり、どこまでがオスカーの「演技」なのか分からなくなるような一コマであったり、逆にあたかも映画の真っ最中に「この物語はフィクションです」というテロップが流れるかのような、肩すかし的なやり取りであったり。
いずれにしてもそこには、映像と音楽の構築を通して、フィクション「を」語るということ、およびフィクション「で」語るということの愉悦がございます。

フィクションと当たり前のように申しましたけれども、もちろんフィクションであるこの作品には、「オスカーが演じる11の生の断片」(=演技のアポ)という11個の入れ子フィクションがございます。そしてそれらの小フィクションと、オスカーという人物の「現実の」生との境界は、時々ひどく曖昧になります。互いに全く関係のなさそうな「アポ」同士さえ、時に交錯します(銀行家とその殺害者、死に行く老人のテオへの言及など)。
この入れ子構造は「映画のポエジーは、映画の中にあるドキュメンタリー的な部分から生まれて来ると思う」という監督の言葉が表すように、映画というものにおける、現実とつくりごとの二重性を暗示しているのかもしれません。
...と、いうのはあくまでパンフを読んでからの後付けの発想でございまして、実際に映画を観ながら思ったことはもっと単純でございます。即ち、結局私たちは自分を演じるということから逃れられないし、人前で「ある私」を演じる自分と、一人になった時の自分とをハッキリ分けることなどできないのだろう、ということでございました。


次回に続きます。