のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

『フィラデルフィア美術館展』3

2007-08-03 | 展覧会
あれです
「何のためだ」って考え始めるのがいかんのです
そうさ




それはさておき
7/28の続きでございます。

前回『ルグラン嬢』を取り上げておいてこう言うのもナンでございますが
のろはルノワールがあまり好きではございません。
ど う に も こ う に も 苦手なんでございます、
ルノワールが描いた妙齢の娘たちの、健康そのもののばら色の頬や生命感ではちきれそうな肉体が。
それに彼女らがしばしば浮かべている、うっとりと自足した夢見ごこちの微笑みは
大抵、のろの心に何ひとつ訴えかける所が無いからでございます。

また、日本人がいったいどんだけ印象派好きなのか存じませんけれども
展覧会の出品作品の中にルノアールかマネが一点でも含まれていると
彼らの作品が他のあまたの良作を押しのけてポスターやらチラシやらグッズやらに取り上げられ
たとえ印象派メインの展覧会ではなくとも、タイトルに『印象派と~』とつけられる傾向があるようでございます。
(本展のサブタイトルも「 印 象 派 と 20世紀の美術」でございますね・・)
そうやって様々な媒体に優先的に取り上げられ
「よいものですよ」というフラグつきの多くの複製品(ポスターや商品)が出回ることによって
印象派=よいもの、ルノアール=よいもの、という既成事実および
その反復による刷り込みが成立してしまっていると思うのです。

「よいもの=売れるもの」「売れるもの=よいもの」という商業主義と
美術が無関係である、あるいはあった、などと申すつもりもございませんし
「複製にして見栄えのするものが傑作だ」というアンディ・ウォーホルの言葉は
美術と私達の関わり方についてヒジョーに鋭い所を突いていると思います。
ただ、ある画家やある作品が問答無用に「よいもの」である、と信じ込まされているような気がして嫌なんでございます。

ちょっと混んだ展覧会に参りますと、パネルのタイトルと作者名と、もしもあれば解説をとっくりと読んだのちに
作品に チラッ と一瞥をくれて「ああ、ルノワール、やっぱりええなー、ルノワールは」と言い交わしながら
もう隣のそのまた隣の作品あたりまで歩を進めて行かれるおじさまやおばさまがたにしばしば遭遇いたします。
本当に良いと思った作品がたまたまルノワールだったのか
「ルノワール」というブランドだから良いものに違いないと思っただけなのか
どうなのどうなのどうなのよと問いつめたくなる所でございます。

もちろんこうしたことについてルノワールには何の責任もございませんが
多分に 坊主憎けりゃ袈裟まで気質 でありますのろは、以上の理由から
彼の作品を何となく斜に構えて見てしまうんでございます。

しかし、そんなアンチルノワール傾向ののろをして
「これはスバラシー・・・」と涙ぐませるような作品が、本展には展示されておりました。(おお、何と長大な前置き)


『アリーヌ・シャリゴの肖像』

隣に掛かっている『ルグラン嬢』に比べたら
モチーフにおいても完成度においても、それほど見栄えのするものではないかもしれません。
しかしこの作品に描かれた女性の視線と微笑みは、右隣の『ルグラン嬢』や左隣の『大きな浴女』のそれとは異なり、
のろの心にさくっと直球で切り込んでまいりました。

ざっくりとした白いシャツの袖を無造作に折り返して
地味な麦わら帽子にピンクの花を刺して
視線をしっかりとこちらに向け、何の気取りも屈託もない笑顔を見せているのは
長男を出産したばかりの画家の妻です。

ごく親しい知人が日常の会話の中でふと見せるのであろう、ごくごく当たり前の、親密な微笑み。
こちらもつられて微笑みが浮かぶような自然な表情でございます。
とりわけ、目元の表情が素晴らしいんでございます。
近づいてまじまじと見ておりますと、優しい感情のこもったその目の輝きに
120年も前にこのキャンバスの前に座っていた人の、柔和な、幸福に満ちた魂を見るようで
じーんと熱いものがこみ上げてまいりました。


会期が長いのをいいことに
あと一回(たぶん)続きます。


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