のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

『バッド・ルーテナント』

2010-05-08 | 映画
強烈な睡魔と格闘しながら働いている夢を見ました。寝た気がいたしません。

それはさておき

前々回『Kick-Ass』の話をいたしましたが、ニコラス・ケイジと言えば『バッド・ルーテナント』の感想レポを書きかけでほったらかしていたのを思い出しました。

「バッド・ルーテナント」 予告編


「彼が向かったその先にあるものとは...」ったって、色々あったその先に感動のエンディングや衝撃のどんでん返しが待っているような映画ではございません。タイトルには堂々と「バッド」などと銘打っているくせに、そこはヘルツォークでございまして、観客はあれよあれよと善悪の彼岸に連れ去られてしまうのでございます。
つまり

綱渡りのロープがどんどん細くなっていくよヒャッハー!
落ちれば地獄さ!進むも地獄さ!しょうがないからラリったれ~アラヨイヨイ!
とか言ってたらどうにかこうにか渡りきったよ!
たどり着いたのはもとの場所だけどね!

てな感じの作品でございます。
どんなだ。

主人公テレンスは優秀な刑事である一方、ドラッグまみれでフットボール賭博中毒、遊び人どもを脅してクスリを巻き上げては、高級娼婦である恋人と真っ昼間から仲良くたしなむ悪徳警官。その上物語が進むにつれ、賭博でこさえた借金はどんどん膨らむわ、街の権力者には目をつけられるわ、麻薬ディーラーとの裏取引に手をそめるわ、どんどん悪徳スパイラルに堕ち込んで行くのでございます。かてて加えて事件の捜査は善意の老婦人に邪魔され、コーヒーテーブルの上にはイグアナが寝そべり、アル中の実父からは犬を押しつけられ、腰は痛いし、ろれつは回らないといった何ともトホホなとトラブルが複合して、公私に渡ってテレンスを悩ませます。
要するに主人公がひたすら四面楚歌に追い込まれて行くという何とも救いのない展開なのでございますが、悲愴感はまるでございません。もはや髪の毛ひとすじほどに細くなった綱の上を、猫背でヨロヨロ躍りながら渡って行くテレンスの姿はいっそコミカルですらあります。

どうにかこうにか綱を渡りきってハッピーエンドと呼べなくもない終幕を迎えても、テレンスが送る綱渡り人生の根本的な問題は何ひとつ解決されないままでございます。それでいて観賞後に残る奇妙な爽快さは、ある種の民話や昔話の読後感にも似ております。
ある種の、と申しますのは、キリスト教や仏教といったメジャーな宗教の説話として脚色されていない民話のことで、例えばずる賢いトリックスターや単に運のいい男が一人勝ちして終わる、という教訓もへったくれもない話のことでございます。そもそも人間は道徳という便宜的な枠の中には納まり得ない、複雑かつ滑稽な存在のはずであり、そうした存在をいいとも悪いとも言わずつき離した視点で、とはいえいささか暑苦しいモチーフで語る所がああとってもヘルツォーク。

サントラは出ていないようですが、アイスランドのバンド、シガー・ロスの曲が使われているという話をどこかで読みました。おそらくコップの中の金魚や、銀のスプーンの思い出語りのシーンで流れる音楽でございましょう。透明感のあるハーモニーが、悪徳渦巻くテレンスの世界にふと舞い降りるとてつもなく美しいひとときを演出しており、大変よいものでございました。

ニコラス・ケイジの狂いっぷりは素晴らしく、前歯むき出してヒャッハッハと笑うイカレ野郎の演技がものすごくはまっております。ニコラス・ケイジって、まともな人間よりちょっと壊れた人役の方がだんぜんよろしうございますね。『フェイス・オフ』でも悪役を演じている時の方がよっぽど輝いていたっけ。思えばあの作品は悪役ケイジと悪役トラボルタを見られるという大変美味しい映画でございました。そうさジョン・ウー、あなたは魅力的な悪役を描くのが得意だったはずなのに.......いえ、何も申しますまい。

ともあれ
ヘルツォークの作品は「ボーゼンとうち眺める」というのが正しい鑑賞の仕方であろうという思いを強くしたのろでございました。カントクとニコラス・ケイジ、なかなか相性がよさそうでございます。これを皮切りにヘルツォーク&ケイジ映画が作られていくことになったら。ううむ、それはそれでちょっと嫌だ。