のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

藤田嗣治展

2006-06-10 | 展覧会
生誕120年 藤田嗣治展へ行って参りました。
~7/23まで、京都国立近代美術館にて。

京都国立近代美術館 The National Museum of Modern Art Kyoto

↓割引券をダウンロードできます。

生誕120年 藤田嗣治展 ~パリを魅了した異邦人~(京都国立近代美術館)

パリ留学時代から晩年まで、本邦初公開のもの約20点をを含む、約100点の作品で
その生涯と画業を辿る展覧会でございます。

フジタといいますと、かの「すばらしき乳白色」と賞賛された裸婦像が、何たって有名なのでございますが
ずっとあればかり描いていたわけではなく
50年余に渡る画業の間に、何度かその作風を大きく変えております。
その変わりっぷりがまた
「これが皆、ひとりの人が描いたものだろうか?」と思うほどの変貌ぶりなのでございます。

フジタはあんまり好きじゃない、という方も、今回の展覧会にはぜひお運びいただきたい。
「フジタといえばコレ」というような作品、即ち、猫を従えシーツに横たわる、乳白色の身体の官能的な裸婦像 とは
違った世界を見ることができるからでございます。

もちろん「フジタといえば」的な裸婦像も展示されておりますが
個人的好みで申し上げるなら、初期の薄暗く物憂い感じの作品や
晩年の、神経症的なまでに緻密な描線を駆使した作品の方が、断然面白うございました。

ピカソやモディリアニと親しかったフジタ、
モディリアニ風の顔立ちとプロポーションをもった人物像を描いていたこともありました。
その頃の作品が今回8点展示されておりますが、どれも大変のろ好みの素敵な作品でございました。

例えば「人形を持つ子供達」
全体に灰色がかった、くすんだ色彩の中、3人の子供たちと人形の真黒いひとみが
画面をぐぐっと引き締めております。
一様に青ざめた顔色の3人の少女は、赤というよりも黒に近い唇を、みなキュッと引き締めて
おのおのあらぬ方向にじっと視点を据えています。
娼婦のような物憂気な空気を漂わせる、無表情な少女たちには
後年の作品に見られるような生々しい肌合いはありません。
すわった眼、細い身体はあくまではかなく、物憂く、病的にすら見えます。

この時代に描かれた人物像はみな、
無表情で、暗く美しい面差しをしています。
陰影をほとんど持たないやせ細った身体に表情の無い顔、
固いポーズに漆黒のひとみ。
固く結んだ、黒い唇。
ギューッと強くつまんで引っ張ったような、細くとんがった鼻梁もまた美しい。

そこらの少女や知人だけでなく、聖母子を描いてすらこの調子なのです。
「聖誕 於巴里」は誕生直後のキリストとその家族を描いた作品ですが
この聖母ときたら、肺病でも患っているかのような青ざめた顔と異様な痩躯で描かれているのです。

ひざまずいたマリアとヨセフが、厩の床に横たわる嬰児キリストを見守る、という構図をとってはおりますが
マリアの眼差しは、はっきりとキリストに向けられてはいないのです。
船越桂の彫刻作品のごとく斜視であるマリアは、実際の所、どこを見ているやら判然としません。
平板な顔に引き結んだ唇、眉毛は全く無く(ああ、のろは眉毛の無い顔が好きなのでございますよ)
慈愛はもとより、およそ表情らしきものも認められません。
飢餓者のように細く尖った顎を胸元に引いて、その顎にとても赤ん坊を支えられそうにない、力ない指先を添えて。

ピエロ・デッラ・フランチェスカの技のごとく
無表情、無感情の、それはそれは静謐な画面なのでございます。

残念ながら展覧会のチラシには、この時代の作品は掲載されておりません。
初期ルネサンス好きな貴方も、ウィーン分離派好きな貴方も、エコール・ド・パリの暗い側面が好きな貴方も
ぜひともこれらの作品に会いに行ってくださいまし。

まだ続きます。