読書な日々

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「ぼくの青春映画物語」

2006年06月29日 | 評論
大林宣彦『ぼくの青春映画物語』(集英社新書、2000年)

あの大林宣彦監督が自分が見た映画の表現のし方について書いたものなのだが、映画監督だからだと思うけど、文章はあまり上手ではない。はっきり言って最初の第一章とか第二章は退屈だ。しかし第三章になって子供時代のことCFを作っていたころの話になると、じつに面白くなるし、彼の生きてきた子供時代自体が面白いので、文章も読みやすくなっている。

やはりあれだけの面白い映画を創る人は子供時代から違うようだね。小学校に上がるか上がらない頃、といっても1937年生まれだからちょうど戦中になるのだが、その頃から映画ということも知らないで、医者をしていた家にあった映画のフィルムを切り刻んで遊んでいるうちに、固定した絵をいろんな順番に組み合わせることで映画ができるということを知ったというのだから素晴らしい。すでにその頃からモンタージュの技法を掴んでいたわけだ。それに今度は固定していると思っていた一コマ一コマの絵が少しずつ変化していることに気づき、撮影のキャメラがないので、普通のキャメラで自分が鞍馬天狗に扮装して、少しずつポーズを変えて撮影し、それを一本のフィルムのままで現像するように頼んでみたり、ネガということが分かると、今度は白く映るところを黒塗りの衣装にしてみたりとか、いろいろ創意工夫をして最初の映画を作ったなんてところを読むと、すごい!の一言しか出てこない。それに、芸術家はそれ固有の表現手段の眼を通して世界を見るようになるという。たとえば画家なら鉛筆の線をとおして世界を見るようになる。絶対音感の持ち主ならあらゆる雑音までが絶対音として、和音や不協和音として知覚されるようになる。映画監督の場合はコマとして世界を見るようになるらしい。大林監督もこうした経験をすることで少年時代にすでに人の動きがコマ送りとして見えるようになったらしいのだ。なんとも面白い話だ。

そして代々受け継がれてきた医者の家系なので当然のごとく医者になるべく東京に受験にきて、受験中に映画監督になることに決め、途中で退出し、両親に医者にならない、映画監督になると知らせたときに両親の反応も素晴らしい。私などとてもあのような対応はできまい。うろたえるか、どなりつけるか、だろう。

私は大林監督の映画は、誰のものともしらず、なんの呼び知識もなく、偶然に観て、どれも気に入った。『転校生』『青春デンデケデケ』『あの、夏の日。―とんでろ じいちゃん』みんなそうだった。彼の映画の魅力はなんだろう? 『青春デンデケデケ』は自分と同世代ということもあるせいか、とくに気に入っている。自分もエレキをしてみたかったのかもしれない。自分も文化祭でエレキを弾いて拍手喝采を受けたかったのかも。それができなかった(その頃はそんなことも思っていなかった)から余計心惹かれるのだろうか。ただそれだけではあるまい。一つのことに向かって仲間と一緒に苦労すること、これも心打つものがある。自分だってそんなことをしていた。でもそれを懐かしく思えないのはなぜか。

まだ観ていない映画もある。一度観てみたいものだ。

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