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断捨離批判

2011年08月04日 | 日々の雑感
断捨離批判

昨日の朝日新聞に森永卓郎が断捨離批判を書いていて、面白く読んだ。断捨離、つまり身辺の物を捨てて、身軽になることだが、断捨離したいという欲求は現代人には本能的なものだと思っていた――私自身も家の中に溢れる物も、ややこしい人間関係も、捨ててさっぱりしたいといつも思っているから。しかし森永卓郎によればそれは「陰謀」ではないかと言う。「陰謀」かどうかは置いておくとして、物を捨ててさっぱりするという断捨離の危険性を彼は指摘しているのだが、なるほどと思わせる。

彼が言うには、断捨離をした結果、食べ物だけではなくてて日常生活のあらゆる物質がダイレクトに外部に依存することになるので、地震などのような大災害が起きた後に対応できないという。断捨離をして周りになにも無い人自身がきっと買いだめに走ってしまうだけではなくて、その買いだめに一歩遅れてしまうと、今日から食べるものに困ってしまうという事態が生じてしまう。それを回避するには、普段からある程度の備蓄をしておくことが重要だと指摘している。

かつて都市型地震である阪神大震災の経験として、ライフラインの復旧まで3日ということが言われていた。その3日間は個人の備蓄でしのげば、なんとかライフラインも復旧して買い物も可能になるだろうと。しかし今回の東日本大震災の経験からは3日なんてものではないことが分かってきた。そういう意味では森永卓郎が推奨する数週間分の食料の備蓄をしておくことを考えても良さそうだ。

こういういつ起こるかわからない災害のための対策以外にも、森永卓郎は、断捨離が人間の有り様を同質化してしまい、支配者側からコントロールしやくするするための「陰謀」だと注意を喚起している。

さらに森永卓郎自身もミニカーを始めとしていろんなものを収集しているらしく、そういう収集というのは、一見無駄に見えて、無関係なものともののあいだにこれまでなかったバイアスがつながって、新しい物の考え方や見方や発想が生まれるという、どちらかと言えば人間生活を豊かにするのだとも書いている。私もわりと収集癖があって、すぐにいろんな物がたまるから、自戒してあまりそういう物にこらないように注意しているのだが、そういうものをおもむろに引っ張り出してきて、思い出に浸ったりすることが時々あるのだが、それはそれで楽しいひとときになる。

うちの上さんはまったく物を捨てない人で、あれこれと貯めている。しかも彼女の場合には、私には考えもつかないが、なにやら目的というか目当てがあってのことらしく、ボロ服を裁断して布草履を作ったり、孫が来たときによく食べるぶどうの皮入れを紙で作ったりしているのを見ていると、なるほどと納得する。この間もとうもろこしの皮を残していたので、聞いてみたら、なにやら孫のために作るつもりらしい。そういう発想こそが人生を豊かにするのではないだろうか。

また老人の場合もそうで、これは私の母親と上さんの両親を見比べてみると一目瞭然である。私の母親は断捨離を地で行くような人で、とくに私の父が亡くなってからは、とにかく物を捨てまくって、まるで死の準備でもしているように、身辺の整理をしまくった結果、本当に家には日々の生活に必要なものしかなくなってしまった。だからたまに母親の様子を見に行くのだが、まったく私としてはすることがなくて、早々に帰ってきてしまう。他方、上さんの両親は家に物を貯めまくっていて、もちろんそれを普段使うわけではないのだが、それが彼らの多趣味の反映であることはすぐ分かる。いろんなことに興味をもって、現在も二人で秋に行われるミュージカルに出演するのだと張り切っている。もう85才なのだけど、いろんなことをやっている分、話題も尽きない。

こういう例を見ると、明らかに森永卓郎の言っていることが正しいと思えてくる。たしかに本能みたいに身辺をさっぱりしたいという思いは捨て切れないが、また物に溢れた家に住んでいるのはなんだか物質主義の権化のように見えないこともないが、現代人が心豊かに生活するには、断捨離は決して薦められないということが納得できる。

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