読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

『パチンコ』

2024年06月03日 | 日々の雑感
ミン・ジン・リー『パチンコ』(文藝春秋、2020年)


最近は、7日から10日くらいの間隔で、母親の介護に米子まで出かけている。母親の家では3日から6日くらい滞在して、また自宅に帰るという生活である。その行き帰りや母親の家では、なかなか本を読む気力がないのだが、これは一気に読んでしまった。

チェジュ島の近くの影島で生まれたパク・ソンジャとその両親の暮らし、そしてパク・ハンスの子どもを身篭ったソンジャを連れて、大阪の猪飼野に移り住んだパク・イサクの朝鮮人町での貧困の暮らしの描写は、一家を支えるオンマの腕にかかっていることをリアルに描き出す濃密さを持っている。

影島での生活は、まだ畑があって、野菜を作りができるし、下宿している漁師たちが持ち帰る魚を使って美味しい汁物を作ることができるのだろうからまだマシとしても、大阪の猪飼野での生活は、それこそ都市生活ゆえに現金がないと生活していけないわけで、自分たちの食べるものにも困るような状況の中で、現金を捻出して、材料を買い、キムチや飴を作って、駅周辺で売って、日銭を稼ぐという暮らしの描写も、作者の後書きを読むと、相当に在日の暮らしや環境や日本人の差別などを膨大に調べた上で書いたというのが納得できるほど、リアルである。

それに比べるとソンジャの子どもたち(パク・ノアやモーザス)の世代や孫(ソロモン)の世代は見た目には全く違うように思える。もう食べるものにこと欠くことはなくて、場合によっては、ノアやソロモンのように高学歴さえ手にすることができる時代になった。母親世代の描写にあった、あの濃密さは消えて、スカスカな世界を見ているような、そんな平板さが描写を支配している。しかし在日朝鮮人の苦悩は形を変えて彼らを苦しめ続ける。

そして医者、弁護士、会計士、大学教員などのように、在日であっても、日本人と肩を並べて仕事をすることができるような職業に就くことができる人たちはごく一握りだが、彼らの世界でさえも、差別が消えてなくなるわけではなくて、一般の多くの在日と同じように、ノアやソロモンと同じ苦悩を背負って暮らしている。

結局、私がこの小説に感じた描写の濃密さ・のっぺらさは、時代の違いなのだとおもう。おそらく貧困層の日本人が戦前・戦後を生き抜いた小説だとしても、同じ構造を見せたのではないだろうか。だからと言って、この小説に意味がないということではない。とりわけこの小説の舞台となった日本という国の、朝鮮(韓国)への差別意識の問題は、本当に、この小説が描き出したように、永遠に変わらないのだろうかと思わせる根深さを持っている。

訳者があとがきで、「異国に移住した一世と二世が異なる部分で苦労するのは、実はどの国の移民にも共通している」と書いているが、アメリカでのそれは、特に在日朝鮮人について、まったく違うようにおもう。なぜなら戦前の日本の統治者たちが作り出した(多分に一般民衆もそれに迎合した)中国人・朝鮮人への差別意識は、いまだに根強く、日本人の無意識層に刻み込まれているからだ。

朝鮮支配を正当化するために、国家の維新を遂行することができなかった「劣った」朝鮮民族のために、日本民族が統治してやらなければならない、といったような論理で、韓国併合を実行した。そのために日本人に「劣った」朝鮮人というというイデオロギーが延々と刷り込まれていったのだろう。

それはつい最近まで日本の文化は中国と朝鮮の文化の影響を受けて発展してきたにもかかわらず、まったくそんなことに触れることさえはばかられるように(さすがに中国4000年の文化からの影響を否定することはできないが)、一切触れられることがない。日本語という言語の発展にしても、古くから朝鮮語の影響を受けてきたし、古墳や仏教寺院にしても朝鮮から持ち込まれた文化であることは明らかなのに、そういう影響関係を調べようともしないで、「古事記」や「日本書紀」を訳のわからない解釈をするばかりで、一向に研究が進まないのは、本当に馬鹿げているとしか思われない。

あまり話の間口を広げても意味がないので、この辺でやめておこう。この小説は、こういう問題についてはオープンな、アメリカという国で、アメリカに在住するコリアン系の人によってこそ描きえたのだと思う。ただ、自然な描写、まるで日本に住んでいる在日が書いているように自然な描写が可能だったのは、翻訳者の技量によると言わざるを得ない。




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