読書な日々

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『音楽の聴き方』

2010年04月29日 | 評論
岡田暁生『音楽の聴き方』(中公新書、2009年)

音楽にはサウンドとしての面と言語としての面があるという考え方から、先ず最初にサウンドとしての音楽を聴くということは「感じる」か「感じない」かの二者択一しかないので、ある意味普遍的で、どんな音楽もどんな状況でも成り立つ音楽受容のありようだと説明し、ついで言語としての音楽を聴くには外国語を習わなければ理解できないのと同様に、その分節規則とか作曲家ごとの形式を理解しなければならないと説明されている。これはこの本で書かれていることのごく一部にすぎないのだけど、私が理解できたところだ。多くの音楽愛好家はこの本を読んで日ごろのもやもやがすっきりしたという思いをもつのではないだろうか。それくらい、音楽というものの特徴にそって、「聴く」「する」「語る」音楽について縦横無尽に書かれている。

この著者は定式化がたいへん巧みである。われわれがもやもやとしか状態でしか理解できていないことをスパッと定式化して提示してくれるので、「あぁそうか」「あれはこういうことだったのか」とすっきりすることが多々ある。しかしよく考えてみれば、本当にそうなのだろうか、もやもやしていたのはそれなりの理由があったのではないかともう一度よく考えてみると、そんな簡単には割り切れないよということもある。

たとえば本書の85ページにサウンドとしての音楽はグローバルだが、言語としての音楽はローカルである、と書かれている。音楽を普遍的と言ったり、いや時代や国に限定されると言ったりするのは、音楽そのものにこういう二面性があるからだな、と合点するのだが、はたしてサウンドとしての音楽はグローバルなのだろうか。言い方を変えてみれば、昔からサウンドとしての音楽は普遍的であったのだろうかということである。

音楽で使われる音というのはすべての民族の音楽で同じではない。いわゆる音律というものが西洋でさえ古代ギリシャと中世と近代とではちがう。三度を協和音と見るか不協和音と見るかがいい例だ。さらに西洋と日本も違う。くわしくは知らないがインドやアフリカの音楽も違うだろう。ちょうど面のように存在する音的素材に網をかけるようにして、網から漏れた音的素材は音とはみなされない。ただの雑音とされてきた。ということはどんな音、あるいはどんな音の組み合わせを心地好いと感じ、不快に感じるかということは、じつは時代的にも民族地理的にも相対的で、絶対的なものはありえなかったのだが、近代以降、とりわけラモーが近代和声を確立した頃から、すでに社会的には進んでいた植民地支配の後追いをするようにして、西洋の近代和声が全地球を制覇することになった結果、サウンドとしての音楽はグローバルだといえるような状況になってしまったのではないのだろうか。

言語としての音楽ももちろんそれぞれの民族で存在した。これは西洋のなかでも国によって、つまり言語のちがいによって音楽の違いが生じていたが、そういう違いが崩壊していったことについては、この本でも触れられている。それが19世紀になって、資本主義社会になって、まさに民族だとか共同体だとかいうものが不必要になって、個と個の関係になっていく過程で、共同体と強く結びついていた言語としての音楽という側面が崩壊していったであろうこと、また音楽が商品としての価値を見出され、市場を世界に広げていく過程で(レコードの発明はそれを加速したに過ぎないだろう)そういう側面が捨てられていったということだ。

私に理解できたことはここまでで、とくに第四章・第五章で書かれていることについては、あまり理解できたといえない。議論について行けなかったというのが正直な感想だが、その理由の一つにフルトベングラーだとかポリーニだとかをあまり知らないということもあるのかもしれない。ホロビッツの○○は絶品だなんてことに関心のある人なら、興味深いのかもしれない。

あとがきを読むと、これまで中公新書として出版した本のなかで一番苦労したと記されているが、私には一番分かりにくい本だった。

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