仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

明治時代の葬儀

2014年01月26日 | セレモニー
“苦しみが失うことではなく、居場所のない悲しさや拒絶感や孤独感、生きている無意味さや不愉快といった生きることそのものが苦しみの対象になる。すなわち失うことではなく「ある」ことが苦しみとなる”。以前、宗派の『伝道』という雑誌に書いた文言です。

社会の常識が強固でゆるぎなき時代は、その常識に沿って過ごしていれば、自己肯定感は満足されました。ところが自分のことは自分で決めるとなると、自己肯定感は自らが見出さないといけないので上記のような苦しみが生じるのでしょう。

『東京風俗志』(上下)で、明治30年ころの葬儀の様子を読んでいて思ったことです。迷信や習俗が細かく規定されていて、正しく(?)その習俗に追従するだけで、ある種の満足感が得られたであろうと想像しました。少し転載してみます。(101頁~)

葬儀 家人死すれば、穢気を憚りて、まづ神棚に紙をはりて穢気の入るを防ぎ(あるいは一日、十五日、二十八日の三日にかからすれば、これをなさざるもあり)、門戸を鎖して門口に暖簾土裏むきにかけ、または簾を垂れて忌中の札をはり、これに出棺の期日、葬場などをもしるす。死者に血縁ある家にでも、また同じことをなして、親類忌中の札をはるなり。屍体は莞筵(いむしろ)、薄縁(うすべり)などの上に移して、北枕にして西に向はしめ、衣を被ふにも、裾を頭に向けて、うちかく。屏風を倒さまに立てて、枕頭に案(つくえ)を据ゑ、一本樒をたて、燈火を点じ、線香をたき、炮烙に灰を入れて香炉に代ふ。枕団子を供へ、またその傍に刀を置く、これは悪魔の襲よことありと信じてなり。かくて親戚知音に訃を報じ、更に遺漏ながるべきために、新聞紙に広告するもあり。湯灌は夜に入りてなし、血族の男これを施し、女は湯を灌ぐに止むるのみ。柄杓を右手に持ち左むきに灌ぐを習ひとす。かくて頭髪を剃る。向剃とて、剃刀を続けて剃ることなし、凶事の続くといふを忌めばなり。後、経帷子(きょうかたびら)を着しむ。経帷子も血族の婦女二人引きあうて縫ひ、縫糸の留めをなさず。屍体を棺に納るるには、頭巾を被らせ、仏符及び六道銭をいれたる頭陀袋を順に掛け、珠数と竹の杖とを持たせ、手脚に手甲、脚絆をつけ、草鞋を穿かしむ、あたかも冥途への旅立として出立せしむるが如きさまなり。ただし草鞋は跟の方を趾端に穿かして死者をして帰り来らざらしむるの意に出づるなり。妻は夫のために髪を剪りて納む、両夫に見ゆる意なきを表す。
幼児には木偶(にんぎょう)を友として、これにいるることあり。こは死児の寂しきがために、余の児をも冥途に招き寄せんとすることありとの妄信より出でたり。すべて屍体は動揺を防ぐために、葉抹香を以て攻(つ)む。当夜は伽僧(ときそう)来りて夜を徹して誦経し、親戚知音のものども集り、通夜と称へて棺を衛る。棺は貴きは二重棺を用よ、多くは木製の長方形なる寝棺なり、……(以下省略)

時の常識に沿ってことをなすことは、世事万端で労を費やし、なにがしかの達成感がある葉身も思われます。

その世事万端が自由で、自分自身の考えに沿ってと言われたら、戸惑う人も多く、これが引きこもりや孤独感が生まれる1つの要因になっているように思われます。

ある程度強制される正しい作法や儀礼の大切であるということでしょう。
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鳥羽での研修会

2014年01月24日 | 日記
23.24(26.1.月)と東海教区仏教婦人会研修会で鳥羽まで出向でした。200名を超える人の参加で、有意義でした。グル―プ別の話し合いでは、苦しみ悩みをテーマに、それぞれの悩みを聞かせていただき、それに対しての講話でした。

み教えをどう次の世代に伝えたらいいか、苦悩しているようでした。

お世話になった方々、御礼を申し上げます。

コメント (1)
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寅の日って?

2014年01月24日 | セレモニー
図書館から『東京風物誌』(ちくま学芸文庫・平出コウ二郎)上・下を借りてきました。明治時代の東京の風物を詳しく記録しているものです。

東京の浄土真宗の様子を次のように紹介されています。

「真宗は東西両本願寺あり、末刹も多く檀徒もまた夥しきといへども、気勢はなはだ熾なりといふべからず。そも予の真宗の本場ともいはれたる尾張に長じたるによりて、これを観るに偏する所あるか。とにかく毎朝戸々に唱名和讃の声の起るが如きこと稀にして、却って夜々法華題目の節柝に和して喧しく起るを聞くこと多し。両本願寺の報恩講も常に池上本門寺の会式の盛なるに及ばず、蓮如忌の如き、寂としてその日たるを忘るるを見るも、特に日蓮信徒の多きを徴するに余あるべし。」とあります。

明治時代の葬儀の様子も克明に記されていますが、明治期東京では「友引と寅の日」は葬儀を避けたとあります。

全国的迷信として、友引の日には葬式をださないということがあります。またネットで見たのですが、「山形県鶴岡市とその周辺では、友引に加えて、子・丑の日にもださない。 隣の市の酒田とその周辺では、友引と寅の日にださないが子・丑の日は構わない。」とあり、寅の日に葬儀を出さない地方はまだあるようです。

子・丑・寅の日にお葬式を出さないのは、

酉の日 取りの日 命を取る
丑の日 牛の日 牛の後追い
寅の日 トラの日 トラのは千里を帰る

寅の日は、死者が帰ってくるという迷信です。

話しは変わりますが、明治期の風物を読んでいると、社会的に風習や習俗が多く、そのしきたりにゆだねて生活している明治の人の暮らしが見えてきます。

現代は、何でも自分が主人公です。一面、そのことから自己肯定感の物足りなさが起こってくるのでしょう。私という存在は他によって確認できる一面があるのですから。その意味でも、浄土真宗という儀礼のもつ重要さを考える必要があるでしょう。
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浄土真宗の葬儀

2014年01月23日 | セレモニー
『築地本願寺新報』(2014.1月号)にブック紹介で勝田至著『日本葬制史』が紹介されていました。今は便利なもので、その記事を見たとき、すぐ携帯電話で「柏市図書館」を開き、検索すると、その本がありました。

資料、史実を抑えた力作で本学的な研究論文集で、お墓について古代から現代まで網羅されていました。先月、お墓について触れましたが、資料の原点は、この著者の論文かとも思いました。

各宗の葬儀の歴史も説かれていて、資料の意味もあり「浄土真宗」の部分だけ転載しておきます。(以下転載)

浄土真宗では早く建武四年(1337)に覚如が『改邪鈔』で、当流の門人と称する人々が報恩謝徳の集会をしても往生信心の話はしないで「没後喪礼の助成扶持」を肝要だとするような話ばかりしているので、諸人が真宗のことを世間の無常講のように思っていると批判している。この時代に葬送互助が生まれてきていることがわかる貴重な記述だが、これに続けて、親鸞は自分が死んだら「鴨川にいれて魚にあたふべし」と遺言したのだから、いよいよ真宗は葬送を一大事などと考えてはならないと述べている。                                     民俗学では真宗がさかんだった地域では昔から火葬だったこと、また一部に「無墓制」がみられることはよく知られている。無墓制とは民俗学の用語で、

火葬にして骨のごく一部を本山に納め、他の骨は捨てるので墓がないものをいう。これは真宗が広まった地域では中世からあった可能性があるが、墓が「ない」ことは発掘では証明しづらいのも事実である。ただ真宗がさかんな広島県の安芸地方では中世後期の集団墓が少なく、これを真宗と結びつける見方もある(『日本の中世墓』)。文献では三河の一向一揆の顛末を記した『参州一向宗乱記』に、一向宗は「墳墓を築く事をせず、其寺を先祖の廟堂として、雑行雑修の心を打捨て、一心一向に、身命を阿弥陀如来に抛の宗門也」とあって、三河の一向門徒が墓を造らなかったことを述べ、『甲陽軍鑑』品第四十下には内藤昌豊の妻の母が死に、門徒だったので一向宗の坊主を多く招いたが、死者に供える膳を昌豊か立派に調えたのをみた僧は、わが宗では阿弥陀様に膳を供えれば他には要らないと言った。この言に怒った昌豊は僧にも膳を出さなかったという話がある。真宗では阿弥陀如来のみが信仰対象であって死者は崇拝しないという教理を現在でも守っているが、それと関連して墓を重視しないことが古くからの宗儀だったとみられる。(以上)

「真宗恐るべし」の内容です。今でもよく大谷本廟へ分骨しますが、あれは江戸時代では分骨以外のお骨は破棄して大谷本廟へ納まる伝統であったのかも知れません。
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九條武子訃報記事

2014年01月22日 | 日記

2月(26年)7日の九條武子さまご命日法要如月忌で,本願寺で法話をすることになっています。その資料でもと思い、昭和2年の葬儀の様子を記した新聞(縮刷版)を読もうと柏市図書館に行きました。新聞のマイクロフイルムがあると言われ、期待しましたが、千葉県版しかないとのことで、葬儀の様子は断念しました。

しかし『東京日日新聞』の記事がありましたので紹介し資料とします。
 
 〔昭和3年2月8日 東京日日〕

女流歌人、眠るがごとく逝く
 
 七日朝来嗜眠状態となった九条武子夫人は午後二時、帝大真鍋教授、大角、遠藤両博士、磯部主治医等立ち会いで注腸及び強心薬の注射を行ったが、次第に哀弱を加えた。医師のすすめによって生母の円妙院大谷ふじ子刀自(とじ*戸主の敬称)が手を握ると静かに目を開き、「おばあさんきた?」と声をかけ、夫人が贈った珠数を手にしているのを見て、「これをいただいてゆきます。お念仏をとなえて下さい。二十五年ぶりでお父さんにお目にかかります」ふじ子刀自が語をついで、「私もすぐ参ります」という間もなく七時二十五分、眠るがごとく一代の美夫人は逝いた、永遠にねむった。磯部病院二階八畳の「森の部屋」には夫君良致男、大谷光明氏夫妻、壬生男母堂義子等親近者が悲痛な面持ちで最後まで見まもっていた。大角博士が手を放して臨終を告げると、一同はたえかねて泣きくずれた。この時、部屋の生花もうなだれて一段と哀傷を加えた。

 夫人の遺骸は午後十時、最後のきよめを行い担架で玄関前に移し、寝台自動車に乗せ夫君良致男をはじめ近親者つき添い、同四十五分、磯部病院を後に築地西本願寺別院に安置した。先頃皇太后陛下からお見舞いとして賜った蘭とばらの鉢はそのまま自動車に乗せ枕頭に供えられて、見送る人々の哀愁をそそった。葬儀の日取りは九日確定のはずだが、十三日、本願寺別院で行われることに内定した。

香り高き生涯 九條武子夫人は明治二十年十月二十日、京都西本願寺明如上人大谷光尊師の長女として生まれた。小学校から京都師範付属女学校を卒え、その後もっぱら家庭教師について学問をはげみ、明治四十二年、九條良致男に嫁し、その年の暮れに相携えて欧州漫遊の旅に出た。ロンドン滞在中、良致男はケンブリッチ大学に留まることとなったので、夫人は一人淋しく故国の土をふみ、爾来空閨孤独十年、日本随一の佳人が花月に事寄せての歌は時に子女の涙をしぼらせた。その間における夫人のつつましき態度と社会事業に尽くした健気さは涙ぐましきばかりであった。仏教婦人連合会の会長として或いは真宗婦人会長として、鶴のごとき気高き姿をしばしば細民窟に現し、或いは花の日会には街頭に花売る少女等を指揮するなど、流麗な歌や文とともに深く世人の印象に残っている。その他六華園、本願寺本所出張所長、ロンビニーコーラス団顧問などをつとめ、公私とも非常に多忙な身であった。
 歌集「金鈴」、随筆「無憂華」を出版し、更に最近歌集第二編を集めていた。油絵、日本画、ピアノ、琴、茶、花など婦人の道は何一究めまざるはなく、謡曲なども女性には珍しいほど凛然たるものがあった。
(以上)
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