仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

幸せになる症候群

2011年07月21日 | 現代の病理
「幸せになる症候群」。何のことやら?

昨日(23.7.20)の夕刊各紙に児童虐待が昨年より10.000件増えて、55.000件あったという報道ありました。

児童虐待の原因は、いろいろ言われています。言葉の奇抜さから言えば「白雪姫コンプレックス」があります。

 白雪姫の物語は、継母が娘を殺そうとする物語として知られているが、原作のグリム童話初版本では実母となっているそうです。
白雪姫が7歳になったある日、王妃が魔法の鏡に「世界で一番美しい女性は?」と聞くと、白雪姫だという答えが返ってきた。王妃は怒りのあまり、猟師に白雪姫を森に連れて行くように命令する。白雪姫は家を追い出され遂には猟師に殺されかけ、肺と肝臓を母親に食べられそうになる。最後は、母親の毒リンゴを食べ意識不明になっていたところを、通りがかった王子が引き取るとり助けられるという物語です。

子どもの時代に虐待を受けて育った人が、子どもに同じような辛い虐待を繰り返すという、痛ましい悲劇のことです。

私の個人的な思いは、標記の言葉「幸せになる症候群」です。「幸せになる症候群」とは、子どもの頃から、我慢を強いられることなく、自分の思い通りに過してきて、結婚というゴールにたどり着く。その結婚も「幸せになろうね」とスタートする。そしてその幸せの果実として、子が授かる。幸せになることが当たり前で、その幸せを妨げるものは悪という構図が出来上がります。

ところが子育ては、わずらわしさや自分の楽しみを犠牲にしなければならないことが多く、やがて苦痛な苦労疲労から、自分をコントロールする余裕を失い被害感がつのって、子どもへ憎しみをぶつけてしまう。

そうした状況を作り出す要因として、子育て知識のマニュアル化依存や、世代間、あるいは地域社会でのコミュニティ力の低下があります。

人は孤独になると、その孤独を子どもへの愛情過多によって孤独を癒すとも言われています。「これだけやっているのに」という思いが、逆に虐待を生み出す原因にもなる。愛がそのまま憎しみとなるのです。

そんな分析しても仕方ないのですが、こうした民衆の流れをつくっている原因の1つが、仏教の考え方、「娑婆」(忍土―思い通りにならい場所)や凡夫(自分が偉いと思っている)への自覚といった教えを社会に向けて発信してこなかった仏教者の責任もあります。
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阿弥陀さまとのハーモニー

2011年07月20日 | 浄土真宗とは?
産経新聞(23.7.20)一面コラム“「こころ」と「かたち」”に、前NTT会長である福地茂雄さんが「“鬼”にふるまわされている」という題で思いを寄せていました。

コラムの趣旨は、

24日に地上波テレビのアナログ放送が終了し、デジタル放送に完全移行する。
世界各国がイデオロギーを問わず、デジタル化を目指している。しかし、デジタル化は必ずしも万能ではないと考えている。デジタル信号に置き換えられないもの、これを仮にアナログと呼ぶとすれば、デジタル化はアナログを補完するもの、アナログ的なものを実現するための手段であつたはずだ。今はデジタル化の言葉がひとり歩きし、それ自体が目的化してしまっている観がある。
 「鬼に金棒」という言葉がある。本来はアナログという鬼がデジタルという金棒を持つことで強さが倍加するはずであった。それが、金棒の方が強くなって鬼が振り回されている状況になっている。デジタル化か進んだ半面、人間の感性が鈍りつつ私はあるのではないか。…なかでも一番退化しているのはコミュニケーション能力だ。…さらに、人間の五感の退化をも招いているのではないか。…色合いを見て、香りを嗅ぎ、手触りを感じ、時には叩いて音を聴き、実際に味わっておいしいか、食べられるかを判断していた。五感を働かせ、それを知恵として身につけることは、人間の本来あるべき姿のはずだ。…
 いつの時代でも、人と人とのぬくもりを感じるコミュニケーションの大切さは不変である。 デジタルとアナログは対立するものではない。これからはデジタル的なものとアナログ的なものの融合が、より重要になってくる。(以上)

考えさせられる内容でした。浄土真宗(仏教)という考え方は、もっともアナログ的であり主観的です。であるならば、人間のデジタル化が生みだす弊害に、もっと敏感である必要があるだろう。
 寺院活動の色合いは、アナログ的な色彩を意識的に取り入れ、不便さや苦しみ悲しみをもっと大事にして、人と人との出会いを、もっともっと大切にする必要がある。

40年前、本願寺が全国紙新聞に一面広告を掲載したことがある。故山本仏骨和上が文案を考えたと記憶しています。文面の内容は失念しましたが、最後に「念仏は宇宙のシンフオニーである」(記憶が定かでない)という言葉がありました。

意味するところは、念仏は阿弥陀さまとのハーモニーであり、一切の諸仏が奏でるシンフオニーであると言ったところです。

その記憶があったので1991年に仲間と『<がん体験>―がん患者・家族の語らいの会からのメッセージ』を出版した折、代表してまえがきを書き、その最後に「<がん体験>それは患者のみの苦しみの体験ではなく、出会いがあり、別れがあり、苦悩があり、学びがあり、喜びがあり、そこには<がん体験>という生のハーモーニーがあります」と書きました。

アナログ的なものをじっと手にして味わっていると、この生のハーモニーが感じられるし、アナログ的存在そのものが、まさに宇宙のシンフオニーの一表現なのだと思います。
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CD「愛憎を超えて」

2011年07月19日 | セレモニー
千葉県柏市、当地でのお盆はほとんどが8月です。でも東京は7月なので、7月に勤めても少しも違和感がありません。ですから7月からお盆の出勤は始まっています。

毎年、お盆のお扱いは、私の著書などです。なのでこのお扱いは一年前から取り掛かります。昨年は『仏さまの三十二相―仏像の形にひめられたメッセージ』(朱鷺書房)で、一昨年は、『わが家の仏教・仏事 浄土真宗』(東方出版)でした。平成12年から毎、何かを出しております。

今年は、西方寺CD「愛憎を超えて」(写真)です。CDが四枚目ですが、2007年9月18日に千鳥ヶ淵法要での法話と、本願寺ラジオ放送を4遍納めたものです。

さて来年はどうするか。CD希望者は切手500円分を入れて「CD希望」と書いて送って下さい。

277-0032 柏市名戸ヶ谷1121-2 西方寺まで
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いのちは可能性

2011年07月18日 | 日記
昨日(23.7.17)の深夜便「明日へのことば」は「縄戦・遺骨収集ボランティア活動の30年」と題して、遺骨収集ボランティア団体代表 具志堅隆松さんでした。


遺骨収集を、ホームレスの自立・就労を支援する団体と協力して、緊急雇用創出事業として行っているという。沖縄のホームレスの中には、本土から死に場所として沖縄に来て、そして遺骨収集事業に関わった人もいるそうです。

インタビューの中で印象的だった言葉は、沖縄を死に場所に選んで来てホームレスとなり、そして遺骨収集のチームに入り仕事をする。戦没者の遺骨を収集している間に「いのちって言うのは可能性だ」と複数の人が気づくという。

良い話です。「いのちって言うのは可能性だ」と気づく。これって何だろうと思う。生きて行く可能性が閉ざされて、死に場所を求めて沖縄に来た。そして自分の意志に寄らず、死にたくないのに死んで逝った戦没者の人たちと対面する。死者との対面の中で「いのちって言うのは可能性だ」と気づく。

生きていくことの可能性を見いだせなかった人が、いのちとは可能性そのものであると気づく。ここには1つの超越というか質的転換があると思う。すなわち可能性があるか可能性がないかという自分の思いをより所とした境涯から、可能性があると思おうが思うまいが、いのちそのものが可能性そのものであるという自分の思いを超えた世界への転換です。

何か、簡単なことを難しくしてしまったようですが、こうして言葉に落としておくと、現代において損なわれているものが見えてくる気がします。
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命は尊い?

2011年07月17日 | 仏教とは?
安藤さんの人形劇「シビ王とハト」の観劇で、お伝えし、昨日の当寺(西方寺)法話会でも、少しふれたことですが、「シビ王とハト」の逸話で“いのちの尊さ”を、子どもたちに伝えることの難しさがあります。

先ずはシビ王の説話です。

昔、インドにシビ王という慈悲深い王がいた。ある時、シビ王の元に一羽の鳩が舞い込んできて「鷹に追われています。私のいのちを助けてください」とシビ王に頼みます。
すると直ぐに鷹が飛んで来て「その鳩は私の獲物です。鳩を食べないと私は生きていけません。その鳩を私に返して、私のいのちを救って下さい」とシビ王に頼みます。

シビ王は鷹に向かって「森の中に行けば鳥の死骸はいくらでもあるだろう。その肉を食べれば良いではないか」と言います。
しかし、鷹は「私は死んだ鳥の肉では、いのちが保てません。どうか、その鳩を私に与えて下さい」と納得しません。
鳩を渡せば鳩が死ぬ。鳩を渡さなければ鷹が死ぬ。シビ王は周りを見渡すが、「鳩の身代わりになろう」というもはいません。

シビ王は鷹に向かって「わかった。私の肉を与えよう」と返事をします。鷹は「その鳩と同じだけの肉を下さい」と言うのでシビ王は自らのももの肉をえぐり取り鳩と一緒に天秤に乗せました。
しかし、天秤は鳩の方が重たいままなのでシビ王は次に片足全部を切り取り天秤に乗せました。それでも天秤は動きません。
 シビ王は「はっ!」と気付き、自らが天秤に乗りました。すると秤はピタッと真ん中で止まり、鳩とシビ王の重さが釣り合いました。(以上)

通常、この話は“鳩の命もシビ王の命も等しく尊い”で通り過ぎてしまいます。しかしシビ王が“「はっ!」と気付”いたその気づきは、どうも命は等しく尊いといった言葉ではピタッとしません。

“命は等しく尊い”という真理を客観的なものとしてしまうと、子どもたちは混乱してしまうのではないかという危惧です。
鳩の命も自分の命もと、自分の命を軽く見たり、あるいは、その尊い鳥の命を殺して食べることの、倫理矛盾です。

通常は、「その尊い命をいただいているから無駄にしない」といった屁理屈をつけて説教しますが、それは屁理屈だと思います。

何が問題かと言えば、おらくシビ王が“「はっ!」と気付”いたことは、自らの内にある命を差別する心であり、私という閉ざされた価値観への気づきであったのではないでしょうか。そう気づかせたものこそ“いのちは平等である”という真理なのでしょう。
真理に常に客観的な事実としてあるのではなく、私の心の闇を破る光として働いている。そう理解した方がよさそうです。


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