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仏教ライフを考える西原祐治のブログです

コウモリの話し

2011年07月30日 | 日記
産経新聞に「消えた偉人・物語」という明治、大正時代の学校教科書に載っていた物語を紹介するコーナーがあります。今日(23.7.30)は、“「フタゴコロヲモツナ」 明快なたとえ話で説く”で、「昔の教科書には、まことに単純明快な教訓、訓戒を内容とする話が載っていた。どんな子供にも「それはそうだ。うん、うん」と頷(うなず)かれる分かりやすい話である。」とコメントが入って、 明治37年、文部省発行の『小学読本五』(現3年上巻)の「カウモリ(蝙蝠(こうもり))」の話しが紹介(執筆・植草学園大学教授 野口芳宏)されていました。(以下転載)

 (前略)ムカシ、鳥ノナカマト、ケモノノナカマトガオホゲンカヲシタコトガアリマシタ。
 ソノトキ、カウモリハ「ジブンハ、鳥デモケモノデモナイカラ、ドチラニモツカン」トイッテヰマシタ。
トコロガ、ハジメニハ、ケモノガカチサウニナリマシタ。スルト、カウモリハ「ジブンハ、カラダガネズミニニテヰルカラ、ケモノノナカマダ」トイッテ、ケモノノ方ニツキマシタ。
 ソノウチニ、鳥ガカチサウニナリマシタ。スルト、カウモリハ、マタ、「ジブンハ、羽ガアルカラ、鳥ノナカマダ」トイッテ、鳥ノ方ニツキマシタ。
 トコロガ、マモナク、鳥ノナカマモ、ケモノノナカマモツカレテシマッテ、ナカナホリヲシマシタ。ソシテカウモリヲニクンデ、ナカマハヅレニシマシタ。ソレデ、カウモリハ、コノトキカラ、晝(ひる)ハトビマハルコトガデキンヨーニナリマシタ。
 コノ話ハ「フタゴコロヲモッテハナラン」トイフコトヲヲシヘタツクリバナシデス。(以上)

面白いと思ったのは、1つの生物の自然現象から、物語を作って行く愉快さです。両生類のカエルでも、足のない蛇でも、生態的特徴を題材にして物語ができます。

それとこの記述のメインは、「フタゴコロヲモッテハナラン」ということですが、まったく逆に「一つのことに固執してはならない」ということで、コウモリを正当化することもできます。


イソップ童話(http://hukumusume.com/douwa/pc/aesop/11/14.htm転載)に次のような物語があります。

コウモリが地面に落ちて、イタチに捕まってしまいました。
 殺されるに決まっていると思ったコウモリは、
「どうか、命だけは助けて下さい」
と、頼みました。
 イタチは、
「駄目だね。あんたを放すわけにはいかないよ。なぜって、わたしは生まれつき、鳥は全部敵だと思っているからね」
「おや、よく見て下さい。わたしは鳥ではありません。ネズミですよ」
 コウモリは翼をたたむと、ネズミによく似ています。
 こうしてコウモリは、うまく命拾いしました。
 しばらくして、このコウモリはまた地面に落ちて、別のイタチに捕まってしまいました。
「お願いです。わたしを食い殺さないで下さい」
「嫌だよ。わたしはネズミというネズミが、全部嫌いだから」
 コウモリは、翼を広げると、
「おや、わたしはネズミなんかではありませんよ。ご覧の通り、鳥ですよ」
 コウモリは、今度もまた、放してもらいました。
 こうしてコウモリは、名前を変える事で二度も命拾いしたのです。(以上)

ということは、こうした物語を読む場合、大切に視点は、「このことを正当化しようとしている」という物語を作った人の真意や、語ろうとしている内容は精神性かテクニックかという物語の深さを読んでいくことでしょう。
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