仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

お寺のコンビニ化

2009年10月26日 | セレモニー
今年になって特に意識することですが、法事の依頼が一、二週間前になってあることです。もちろんすべての人ではないが、間近になっての依頼でも反省する様子がない。

3つのことが想像できます。お寺は、時間的に余裕があるので間近でもOKと思っている。2つ目は、生活のスタイルがコンビニに代表される手軽で便利感覚となり、刹那的な生活スタイルになっている。3つには、お寺に対する感覚がコンビニ感覚になっていることです。

おそらく2.3の刹那的な生活スタイルとお寺のコンビニ化の影響であろうと想像します。お寺のコンビニ化はある意味で賛成です。便利さだけを要求されると拒否しますが、身近である点は評価できます。

2年前に死産の体験をされた方から先に逝った子の法名の依頼がありました。法名をお付けし意味をかき、添え書きに「お志は、3日の法話会に一度ご参加ください」と認めました。悲しみを仏縁として昇華させていく。仏事はここに極まります。
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愚の力

2009年10月25日 | 現代の病理
『愚の力』(文芸春秋刊)が売れている。本願寺大谷光真門主が執筆したものです。早速、読み始めている。随所に深い思索と現代人へのメッセージがある。

6年前ご門主の随行としてご一緒した折々に感じたことは、ご門主は権威の象徴ではなく、宗門のリーダーだという思いです。このリーダーという感覚は大切だと思う。本願寺派においてご門主のほかにリーダーとなる人がいない。これは宗門場からではなく、寺院においても住職はリーダーであるべきだろう。

リーダーとは指導者・統率者であるが、ある方向に向かって皆でという概念です。お寺の住職がリーダーになっていないところに寺院の閉塞状態と一致団結という組織体になっていない現状がある。

そして『愚に力』です。この本を読み始めて思ったことは、宗門のリーダーという思いからオピニオンリーダーでもあるということです。オピニオンリーダーとは「ある集団の意見の形成に方向づけをする人。特に、社会全体の世論の形成に影響を与える人。」と辞書にある。現代において、今まで僧侶が社会のオピニオンリーダーであると目された方はいなかった。しかしこの本でその地位を築いたのではないかと思う。それほど深く現代人の歩むべき方向を示唆している。

讃仏偈というお経に「さながら墨のごとくなる」という表現がある。仏さまの智慧の光は、この世のどんな尊いものでの、その輝きは墨のように感じられるという表現です。まさに私がいつも書いていることが墨のごとく感じられるほど、示唆に富んだ言葉が多い。


『愚の力』14項
科学技術の進歩と経済の発展は、数え切れない人間の夢を実現させました。時代は輝かしい未来に向かっているかのようでした。しかし、夢を実現させた一方で、人間は欲望を限りなく増大させ、自分の欲望の成就にしか関心を示さない自己中心性の闇をどんどん深めていってしまいました。(以上)

その自己中心性の闇が作り出している現代社会の現象を的確に指摘している。本のページをめくりながら、あとで読み返そうとして端を折りまげた個所は、ほとんどのページに及びます。
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お寺の危機管理

2009年10月24日 | 日記
寺院にも危機管理がある。20数年前、築地本願寺に勤めいていた折、副輪番のT師が本山へ移るとき、10年間法務の責任者であったことを回想して言われた言葉がある。

当時は築地本願寺での本堂での葬儀も多かった。師いわく「私はこの10年間、本堂横の法務の事務室に座っていて、葬儀を受け付けるとき暴力団(反社会的な行動集団)関係者の葬儀でないかといつも注意を払ってきた」とのことでした。築地本願寺で暴力団関係の葬儀が行われたとなれば大騒動です。そのとき、管理者の気苦労を垣間見た気がしました。

一般に開放されている墓地でも、その筋の人が永代使用料を取得してしまった場合は大変です。毎月、正装で律儀にも数人で参拝します。またその風評被害で新しく墓地を取得する人も減ってしまします。

この危機管理能力はお寺でも要求されます。葬儀でも他のことでも、アクシデントがあったときにどう対応できるか。その住職の管理能力が問われます。

昨日、ある雑誌を見ていた時のことです。その雑誌は半分専門誌の体裁で、私に原稿依頼がありその見本として前号・前前号の雑誌が送られてきたものでした。以来があった3200文字の原稿を送信してから、ゆっくりと雑誌をめくっていました。知人の文章が掲載されていたので、目を通していると、どこかで見た内容の文字が並んでいます。

なんと私が8年前にある雑誌に書いた原稿が、そのまま2ページ近く転載ではなく掲載されています。ちょうど担当者に原稿を送信して、その返信メールが届いていたので、「掲載の事実と、私の承認、またこの原稿の二次使用は問題あり」と書いて送りました。

原稿のことはあまり問題ではないのですが、私が興味のあるのは、その団体担当者の危機管理能力です。こうしたアクシデントにどう対応するのか。私ならば、個々の担当者の力量ではなく、ある程度の対応のマニアルを作っておいて、そのマニアルに従って処理するでしょう。そうでないと担当者が問題を軽く見て、雑誌の回収ともなれば大ごとです。

私は数年前、6年間、ご門主の組巡教随行講師を勤めました。毎回、常に意識していたのは危機管理ということです。この場合の危機管理とは差別発言です。私が出向した折は、問題発言はありませんでしたが、他の講師の時に2件発生しました。主催者のトップであるご門主が列席している場での大衆の差別発言、いつでも問題が起こっても当然という心持で、注意を払い、そして対処を誤りないようにすること。危機管理にこそ、その人の労力が明らかになります。
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苦しみに意味がある

2009年10月23日 | 現代の病理
昨日(21.10.22)、朝日放送のお昼のワイドショーに出演していた大林宣彦監督(南田洋子さんは「22才の別れ Lycoris 葉見ず花見ず物語」が最後の仕事となった)が南田洋子さん死去に関するコメントを述べていた。といっても私はしっかりと見ていたのではない。居間を通り過ぎる時に、監督のコメントの声だけ耳にしたのですが。

「南田洋子が21日午前10時56分に東京都内の病院で死去したとき、夫である長門裕之さんは、東京・浜町の明治座で川中美幸主演の舞台「幸せの行方 お鳥見女房」に出演中で、最期をみとることはなかった。死に際を見せなかったことは洋子さんの思いやりだったのではないか」(意趣)

私はそのコメントを耳にして「大林さんの映画監督なのに薄っぺらな価値観だなー」という意識がよぎった。これは苦悩を歓迎しないという考え方だからだ。苦しみには意味がない。これが現代の一般的な価値観です。この価値観がどれだけ人間社会をダメにしていることか。

「無痛文明」、森岡正博さんの表現ですが、氏は苦しみや辛さから逃避して生きていくことが可能な社会は、目の前の快楽のみを享受しながら生きていく社会だと警告している。私もそう思う。苦しみや辛さを拒否することのできる社会は、快不快、好き嫌いといった表面的な感情を価値判断の基本に置いてしまう社会となり、こうした社会では、セックスやドラッグといった表面的な快楽を求める傾向になる。

人間がもつ苦悩は、価値観に深さと味わいを加味していきます。辛さを体験しなかったことを良とする発言は、苦しみには意味がないとする考えから来ています。

そして都合の悪いことは、自分以外に責任をおわせ、常に自分を安全地帯に置く。これが苦しみを悪と見る社会がつくりだす世相です。
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南田洋子さんの死に思う

2009年10月22日 | 現代の病理
女優の南田洋子(みなみだ・ようこ、本名・加藤洋子=かとう・ようこ)さんが、21日午前10時56分、くも膜下出血のため東京都内の病院で亡くなった。

と報道されている。昨日のワイドショーでは、膜下出血で重篤な状態となった妻に対する悲痛な思いを語らう夫で俳優の長門裕之さん(75)の会見インタビューが流れていた。

自宅で意識障害を起こし救急搬送され医師から「医師からは“もう治療はしません”と言われた。いま呼吸しているのは洋子じゃなくて人工呼吸器。時間の問題でしょう。一番大事なものを無くしてしまったという事実を認識しようとしています。希望は持ちません」と苦しい胸の内を明かし、「洋子にもしものことがあったら、次の日からどうやって生きればいいのか」と漏らし人工呼吸器を付けた状態の妻に、「まったく生物ではない」「人間の機能を失った、『元』洋子」という表現も使うほど。だが、「奇跡、あってほしいですね。奇跡があったら皆さんに頭下げます」。いちるの望みを託すように漏らした。(報道より)

とある。死んでいくことを待つだけの状態の妻を見守る夫である長門裕之さんに、かける言葉はない。今まで積み重ねてきた経験も知性を虚しく感じる時間であったことだろう。

仏教は本来、現代の病理ではなく、人間の病理に深くメスを入れ、そして治癒の方法を説いている。そしてその仏の教えの中には、今まで積み重ねてきた経験や知性が虚しく終わっていくことを肯定し、そこに安心と希望を見出していく考え方がある。それが浄土真宗という仏道だろう。

以前、紹介したことだが、私も死んでいくことだけを待つ時間を体験したことがある。私が住職を務めいている寺の総代・Sさんが亡くなったときだ。妻と他人では思い入れが違うが、虚しさを感じる体験は深さの違いはあれ同質のものだ。私はその空しく感じる時間の中で毎日念仏を称えて過ごした。
そしてその念仏の中に法蔵菩薩(阿弥陀仏の前身)が都見(隙間なく見ること)した国土の人天の姿の中には、こうした今まさに死に至るしかない人々が、累々とあったという教説を思った。そのまったく意思疎通が途絶えた、自力無効の状況下は、阿弥陀さまを親しく感じる好機であった。

自力無効の体験そこ、先に往く人が最後に残してくれる最も大きき意味のあることであると思う。その演出をして下さるのが阿弥陀如来です。

虚しく感じている自分をゆだねていく世界をもっていることは、大いなる救いです。またその世界のあることを知っていて、人に伝えることを怠ることは大きな罪であるとも思う。
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