『孤独と居場所の社会学~なんでもない〝わたし″で生きるには』(2022/10/21・阿比留 久美著)からの転載です。
居場所とは、どのようなものか?
居場所については、心理学・教育学・社会学・精神分析学など様々な学問領域で論じられていますが、居場所の定義として現在もっともよくつかわれているのは社会教育学者の萩原建次郎の定義です。
・居場所は「自分」という存在感と共にある。
・居場所は自分と他者との相互承認というかがわりにおいて生まれる。
・そのとき生きられた身体としての自分は、他者・事柄・物へと相互浸透的に伸び広かっていく。
・同時にそれは世界(他者・事柄・物)の中での位置感覚の獲得であるとともに、人生の方向の生成でもある。(萩原2018)
サードプレイスへの注目
都市社会学においては、空間はファーストプレイスーセカンドプレイスーサードプレイスという3つの空間によって整理されています。ファーストプレイスというのは家庭や家族を指し、セカンドプレイスは職場や学校など、日中そこで活動に従事することで報酬や知識が得られる生産的な場のことを指します。家庭や家族が帰っていく場所だとしたら、セカンドプレイスは日常的に行く場所、通う場所となります。
それに対してサードプレイスは、家でも職場でも学校でもないようなインフォーマルな公共の集いの場や地域などを指すものとして考えられています(オルデンバーグ2013)。
サードプレイスにおける居場所づくりが話題にされるようになってきた背景には、これまで強い影響力をもっていたファーストプレイスである家庭やセカンドプレイスである職場や学校が不安定なものになっている中で、あらためて地域社会や公共の場の役割に注目が集まるようになっているという点が考えられます。
産業構造が転換して、職住分離と地域人口の移動が進んできた結果、地域社会のつながりが弱まり、私事化か進展していきました。それと同時にファーストプレイスとしての家庭やセカンドプレイスである学校(大人の場合であれば会社)の影響力が強まっていき、サードプレイスとしての地域の存在感は薄まっていきました。
人びとは地域コミニィティでのインフォーマルな社交の時間を削り、自分や家族と時間を費やすようになったものの、その結果、社会的なつながりを減少させ、それと同時に社会関係資本も減少させ、人びとの生活は閉鎖的なものになっていきました。地域コミュニティでの社交の時間を減らした分、家族や職場での絆が強まったかといえば必ずしもそうとはいえず、そもそも新たに家族形成をしない人が増え、家族の不安定性は増し、職場でも(仕事のために割く時間は増えても)持続的な社会的つながりは形成されなくなっていきました(たとえば社員旅行で家族ぐるみの交流をするなどは、今ではめっきり減った文化です)。人びとの生活は以前より孤独で不安定なものになり、社会の分断が進み、連帯はより困難になっています。地域コミュニティでのインフォーマルなつながりが、社会的つながりを維持し、民主主義的な社会をつくることに役立っていたのであり、一見無用にも見える地域コミュニティでのインフォーマルな社交がもたらす効用は非常に大きいものだったのです(パットナム2006)。サードプレイスでの社交は、家庭と職場の往復では出会えないような多様な人との出会いを可能にします。そして、人びとの生活を新鮮さにみちたものにし、心の健康を維持して、元気を回復させ、友だちをつくったり、楽しい人生を送ることをサポートしてくれます(オルデンバーグ2013一981130)。
現代社会が、ともすると人を孤立においやるような傾向をもつからこそ、地域コミュニティの中に居場所をもつことの重要性が認識され、サードプレイスに注目が集まるようになったのです。(以上)
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