
池田行信氏(現本願寺派総務)から『浄土真宗本願寺派 宗法改定論ノート』(法蔵館・池田行信著)が送られてきました。はしがきを読んで「そうなんだ」と思ったことです。その部分を転載します。
浄土真宗本願寺派は幕末から明治にかけて、それまでの複雑な本末上下の寺関係を廃し、本願寺と直末寺とするとともに、さらに教区・組を置きました。すなわち、本願寺は、いわゆる「門跡寺院」でしたので、武家と同じく家臣団を持していました。しかし、明治政府は明治四年五月、門跡の制度を廃止したため、それまで本願寺の実務を担っていた下間家などの家臣団約四百名は離散することになり、そのあとに一般寺院の僧侶が入れ替わりました。
さらに、政府の通達により、明治九年四月、真宗四派(本願寺派・大谷派・高田派・木辺派)は、「本山」は一派一寺、その他はすべて「末寺」とする「宗規綱領」を教部省へ提出し、このことを契機として、「興正寺」は本願寺派から独立することになりました。
しかし、その後、維新政府の藩閥政治をそのまま反映した防長藩の藩閥宗政をめぐって、長州藩出身の島地黙雷らと紀州和歌山藩出身の北畠道龍らが対立する事態が生じ、明治十二(一八七九)年六月十四日、本願寺第二十一世明如宗主が本願寺の寺務所を東京の築地本願寺に移そうとするという、いわゆる「寺務所の東移事件」が起きました。この事件は教団内のみならず、長州藩出身の京都府知事槇村正直まで巻き込んだ大騒動となり、ついに築地本願寺への寺務所の移転は中止されました。その後、政府は長州藩出身の内務喞伊藤博文を仲介にして防長藩僧侶を一時宗務から退かせ、無偏無党の連枝近松摂真を執事とする新宗務体制を編成しました。こうした一連の問題の打開策として浮上してきたのが集会(後の宗会)の開設です。(以上)
浄土真宗本願寺派は幕末から明治にかけて、それまでの複雑な本末上下の寺関係を廃し、本願寺と直末寺とするとともに、さらに教区・組を置きました。すなわち、本願寺は、いわゆる「門跡寺院」でしたので、武家と同じく家臣団を持していました。しかし、明治政府は明治四年五月、門跡の制度を廃止したため、それまで本願寺の実務を担っていた下間家などの家臣団約四百名は離散することになり、そのあとに一般寺院の僧侶が入れ替わりました。
さらに、政府の通達により、明治九年四月、真宗四派(本願寺派・大谷派・高田派・木辺派)は、「本山」は一派一寺、その他はすべて「末寺」とする「宗規綱領」を教部省へ提出し、このことを契機として、「興正寺」は本願寺派から独立することになりました。
しかし、その後、維新政府の藩閥政治をそのまま反映した防長藩の藩閥宗政をめぐって、長州藩出身の島地黙雷らと紀州和歌山藩出身の北畠道龍らが対立する事態が生じ、明治十二(一八七九)年六月十四日、本願寺第二十一世明如宗主が本願寺の寺務所を東京の築地本願寺に移そうとするという、いわゆる「寺務所の東移事件」が起きました。この事件は教団内のみならず、長州藩出身の京都府知事槇村正直まで巻き込んだ大騒動となり、ついに築地本願寺への寺務所の移転は中止されました。その後、政府は長州藩出身の内務喞伊藤博文を仲介にして防長藩僧侶を一時宗務から退かせ、無偏無党の連枝近松摂真を執事とする新宗務体制を編成しました。こうした一連の問題の打開策として浮上してきたのが集会(後の宗会)の開設です。(以上)
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