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後鳥羽院、無常講式

2020年10月15日 | いい話

法話メモ帳より

 

朝日新聞1992(平成4)年11月16日夕刊

 

梅原猛 百人一語97

 

後鳥羽院、譬(たとへ)ば野干の耳・尾・牙を失ひては、詐(いつわり)眠(ねぶり)て脱れんことを望むに、急に頭を斬らんと云(いふ)を聞きて、心大きに驚怖するが如し、後鳥羽院、無常講式、

 

 

*、「(生老病死と言うけれど、浄土信仰に目覚めないのは、)耳(生に対応)・尾(老に対応)・牙(病に対応)を失った狐のようなものである。だから急に首を刎ねると言われると、死を意識し途端に驚く」

 

 後烏羽院が、延応元年(1239)、死の直前に隠岐の配所で書いた「無常講式」ほど凄絶な文章はあるまい。

 後鳥羽院は人も知る文武両道に通じた名帝であり、鎌倉幕府の草創期に当たって、再び世の中を昔の「院政時代」に戻そうとしたが、時の流れは如何ともしがたくぃ「承久の乱」に敗れ、隠岐島に流された。

この隠岐島で、院に信仰の変化が起こったのである。院はかつては「専修念仏」の弾圧者であった。建永元年(1190)、院が「熊野御幸」に出掛けている間、官女が安楽・住運の念仏の門に入ったことが院の逆鱗に触れ、遂には専修念仏の停止の命令が出され、二人の僧らに死刑、宗祖・法然と弟子・親鸞に遠流が命ぜられた。この事件を法然は恨み、親鸞は怒ったが、その念仏の弾圧者が、法然の弟子・聖覚などの感化によって、已の信仰を変化させ、遂に死に際して専修念仏者となったのである。

「無常講式」で説かれるのは、人生は無常で、苦の世界である、それですみやかに専修念仏の教えに帰して、極楽往生を願え、ということであるが、この「無常」の言葉が凄まじい。それは、源信の「往生要集」の文章や、鴨長明の「方丈記」の文章よりもっと黒々とした実感がこもっている。院は彼の人生において、凄まじい「無常」を体験した。栄耀栄華を極めた後鳥羽院が、孤島の漁夫の如き一流人になった。これ以上の運命の無常があろうか。

冒頭の言葉は、「老病死というけれど、なお浄土を願う心を発さないのは、耳や尾や牙を失った狐のようなものである。我々が生まれて仏道を修めないのは耳を失うようなもの、老いて修めないのは尾を失うようなもの、病んで修めないのは牙を失うようなもの。死に臨んで初めて頭を失うのを恐怖するのでは、もう遅い。生老病にあたって、深く無常を嘆じて、熱く極楽往生を願わなけれならぬ」という意味である。

 私は、この狐は後鳥羽院の自画像ではないかと思う。彼は彼の人生において多くを失った。たしかに彼は、耳・尾・牙を失ってもなお、熱い信仰心を起こさなかった。しかし今、死を間近にして“頭”を失う恐怖に駆られ、にわかに専修念仏の教えに帰して、極楽往生しようというのである。

 この「無常講式」は、稀代の名帝にふさわしく、文章に品があり、気概に満ちている。しかし晩年の法然や親鷽の文章のような、ひたすら阿弥陀仏に己を委ねるという軽さが感じられない。そこにあるのは、死に臨んで、専修念仏によって極楽往生せんとする院の叫びのようなものである。私は、このように院は専修念仏者になろうとしたが、院の心の奥には、未だ現世の深い怨念が残っていたと思う。それで院が死んだ後、彼の怨霊が復讐するという話が伝えられるのである。

 この「無常」を説く文章が、親鸞の血を存覚の「存覚法語」に「上皇御製」として引用され、さらに蓮如の「白骨御文章」にそのまま採用されている。このように、「無常講式」が浄土真宗の重要な文書になったことを思うと、後鳥羽院は浄土真宗の徳によって無事、極楽浄土へ往生することが出来たであろう思われる。(哲学者)

 

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