知恩院でのお説教の続きです。話の中心は、浄土宗の第2祖。鎮西流の祖。字は弁阿・聖光房といもいい、また九州西北部を中心に活躍したため、鎮西上人との言われる方のお話でした。
私の小説(親鸞物語)で、覚如上人が口伝鈔に書かれている鎮西上人のことを、一話入れましたが、実名だと浄土真宗の人が見たら腹を立てるだろうとおもい、聖光房ではなく「祥光房」と名前を変えて登場していただきました。
浄土宗で用ゐるはなしは、端折っていえば、九州の明星寺三重塔に安置する本尊を上洛して仏師康慶に依頼した。本尊の完成する3か月間在洛した弁長は、当時専修念仏者として有名な法然上人を京都に訪ね、三重の念仏を聞いて得心し、弟子となった。8年間法然の膝下で師事、親しく面授付法を受け念仏の教えを正しく継承する人となったというものです。
確かに鎮西上人は『選択集』の書写を許されているので、その通りでしょう。
しかし覚如上人は、浄土異流の中心である鎮西・西山派に対し、その派祖の弁長・証空を本書のなかで批判し、親鸞聖人の一流が正しく法然上人を伝統するものであることを示す目的もあって、次のような逸話を説かれています。
だいぶ長い文ですが、私の小説から転載します。本文を知りたい方は『口伝鈔』を。
如信は上目づかいに祖父のほうを向いた。
「祖父(おおじ)、大切にしなければならぬこととは何でござりましょう」
親鸞は言葉を続けた。
「それは三つの髻(もとどり)を剃りおとすことじゃの」
如信は髻が何かを知っていた。
「髻とは、古えの昔より、身分の上下をあらわす冠をかぶりやすくするのに結った髪型のことでありましょうか」と問い返した。
親鸞は頷いた。
「そうじゃ。祖父も法然殿より伺ったことじゃが、わしが法然殿の元にありて学問していたころ、ある日、牛車に乗って法然上人の禅房に行こうとしていると一人の修行者に出会うたのじゃ。そのお方は、それがしにこう尋ねられた。〝この都で仏家最高の方と誉れ高い智恵第一の上人のお住まいはどちらであろう〟と」
如信はまた興味深げに身を傾けた。
「祖父は〝それは法然上人のことでありましょうや〟と問うと、その修行者は〝おう〟と答えました。なれば、それがしはこれより上人のところへ参りますゆえ共に参られよ、さあこの車にお乗りなされと誘うたのじゃ。さればその修行者は、それは畏れ多きことと断わられるので、祖父は、〝真実に出遇うためそれがしも同じ道を歩むもの。何の気兼ねのありましょう〟と、車にいざない、法然殿の許に案内したのじゃ」
親鸞が如信を見ると、如信は「それからいかが成りました」とうながした。
「禅房に着くとの、上人にその行者を引き合わせ申したのじゃ。されば法然殿は〝こちらに参られよ〟と、その行者を近くに招かれたのじゃ。そして行者が近くに進むと、法然殿はその行者を睨みつけたのじゃ。すると行者もまた上人を睨み返しての。お互いに黙ったまま少し睨みあった後、法然殿がその行者に〝おこもとは、何用ありて、いずこより参られたか〟と尋ねられたのじゃ。すると行者はの、まことにそっけなく〝われは九州は鎮西の者。仏法を求めてこの京の都に参上いたした〟と答えたのじゃ。上人はの〝仏法とはいかなる法なるや〟と再び尋ねられた。問われた行者は〝念仏の法なり〟と…」
親鸞が孫のほうへ視線を移すと、如信は「されば、いかに」と先を促した。
「行者はそう言うと懐から矢立てと紙を取り出し〝問答〟と書きて、法然殿にかざしたのじゃ」
親鸞は、その時の様子を身ぶりでも再現した。
「〝都に智恵第一と称さるる上人があると聞き申した。なればそれがしは都に上り、そのお人と問答してみたいと思うた。その上で、まことに智恵勝たれたる人なれば、それがしはその人の弟子となろう。なれど、それがしが問答に勝たば、その者をそれがしの弟子とする〟と言うたのじゃよ」
如信はびっくりして夢中で話を聞いた。
親鸞は優しい言葉で続けた。
「その一部始終を見ていた祖父と仲間の弟子方は、可笑しゅうてなりませなんだ。行者はよほど己に慢心していたのであろう。こうして問答は始まったのじゃが、行者はことごとく法然殿に退けられての、直ちに法然殿を師と仰ぐようになられたのじゃ」
如信は行者の驕慢が打ち砕かれたのが面白かったのか、楽しそうに「何とも威張った行者がいたものにござりまするなあ」と言った。親鸞は話を続けた。
「話はこれからじゃが、それから三年後のこと。その行者はある時、法然殿の前に参ると、〝本国が恋しくなり申した〟と言い、鎮西へ帰ってしまわれたのじゃ。その時、法然殿は行者を見送りながらこう仰せられた。〝あの修行者は、もとどりを切らずに行ってしまわれた〟と。その上人の言葉が行者に届き引き返してこられた。そして師の申された意味を訊ねられた。その時、祖父は上人から大事なことを聞かせていただいた。
〝人から師と呼ばれる人には、三つのもとどりがありまする。それは勝他・利養・名聞にござる。この三年の間、この源空が語った文言を身に付け本国へ帰り人に教えれば、これは勝他、人より勝っていることになり申す。そして人から師と仰がれまする。これが名聞、名誉を得るということにござる。それによりて檀家が増えまする。これが利養、財を肥やすということじゃ〟。勝他・利養・名聞のこの三つのもとどりを切れと。そのとき行者は、自身の驕慢な心を懺悔した様子で、法然殿から頂いた書き物を燃やしてしまい本国に帰ったのじゃよ。しかし他にも多少の書き物が残っておったのであろう。鎮西に帰って上人の仰せと違う言論をしたことで、その在の人々は真実に出遇う妨げとなっております。誠に残念なことであり悲しいことであった。その修行者の名は祥光房(しょうこう)と言うが、その祥光房殿を法然殿の許に案内したのは、この祖父じゃった」
じっと聞いていた如信は、「勝他・利養・名聞」と何度も復唱した。その様子を見ていた親鸞は、自戒を込めて言葉を継いだ。
「法然上人からそのような大切な言葉を聞いた祖父でござるが、心の深いところで人から師と仰がれることを好む根性がござる。まことに恥ずかしきことよ。もし、この恥ずかしい祖父の口から出た言葉によって、阿弥陀如来のお慈悲に出遇う方があるとすれば、それは偏に阿弥陀仏の働きの結果でござる。皆ともに阿弥陀如来の教えを仰ぐ御同朋にござる」(以上)
覚如上人の創作ではなく、きっと元話があるはずです。浄土真宗の僧侶は、この話の内容ではなく、“三つの髻を切る”話し手として、大切にしている逸話でもあります。
私の小説(親鸞物語)で、覚如上人が口伝鈔に書かれている鎮西上人のことを、一話入れましたが、実名だと浄土真宗の人が見たら腹を立てるだろうとおもい、聖光房ではなく「祥光房」と名前を変えて登場していただきました。
浄土宗で用ゐるはなしは、端折っていえば、九州の明星寺三重塔に安置する本尊を上洛して仏師康慶に依頼した。本尊の完成する3か月間在洛した弁長は、当時専修念仏者として有名な法然上人を京都に訪ね、三重の念仏を聞いて得心し、弟子となった。8年間法然の膝下で師事、親しく面授付法を受け念仏の教えを正しく継承する人となったというものです。
確かに鎮西上人は『選択集』の書写を許されているので、その通りでしょう。
しかし覚如上人は、浄土異流の中心である鎮西・西山派に対し、その派祖の弁長・証空を本書のなかで批判し、親鸞聖人の一流が正しく法然上人を伝統するものであることを示す目的もあって、次のような逸話を説かれています。
だいぶ長い文ですが、私の小説から転載します。本文を知りたい方は『口伝鈔』を。
如信は上目づかいに祖父のほうを向いた。
「祖父(おおじ)、大切にしなければならぬこととは何でござりましょう」
親鸞は言葉を続けた。
「それは三つの髻(もとどり)を剃りおとすことじゃの」
如信は髻が何かを知っていた。
「髻とは、古えの昔より、身分の上下をあらわす冠をかぶりやすくするのに結った髪型のことでありましょうか」と問い返した。
親鸞は頷いた。
「そうじゃ。祖父も法然殿より伺ったことじゃが、わしが法然殿の元にありて学問していたころ、ある日、牛車に乗って法然上人の禅房に行こうとしていると一人の修行者に出会うたのじゃ。そのお方は、それがしにこう尋ねられた。〝この都で仏家最高の方と誉れ高い智恵第一の上人のお住まいはどちらであろう〟と」
如信はまた興味深げに身を傾けた。
「祖父は〝それは法然上人のことでありましょうや〟と問うと、その修行者は〝おう〟と答えました。なれば、それがしはこれより上人のところへ参りますゆえ共に参られよ、さあこの車にお乗りなされと誘うたのじゃ。さればその修行者は、それは畏れ多きことと断わられるので、祖父は、〝真実に出遇うためそれがしも同じ道を歩むもの。何の気兼ねのありましょう〟と、車にいざない、法然殿の許に案内したのじゃ」
親鸞が如信を見ると、如信は「それからいかが成りました」とうながした。
「禅房に着くとの、上人にその行者を引き合わせ申したのじゃ。されば法然殿は〝こちらに参られよ〟と、その行者を近くに招かれたのじゃ。そして行者が近くに進むと、法然殿はその行者を睨みつけたのじゃ。すると行者もまた上人を睨み返しての。お互いに黙ったまま少し睨みあった後、法然殿がその行者に〝おこもとは、何用ありて、いずこより参られたか〟と尋ねられたのじゃ。すると行者はの、まことにそっけなく〝われは九州は鎮西の者。仏法を求めてこの京の都に参上いたした〟と答えたのじゃ。上人はの〝仏法とはいかなる法なるや〟と再び尋ねられた。問われた行者は〝念仏の法なり〟と…」
親鸞が孫のほうへ視線を移すと、如信は「されば、いかに」と先を促した。
「行者はそう言うと懐から矢立てと紙を取り出し〝問答〟と書きて、法然殿にかざしたのじゃ」
親鸞は、その時の様子を身ぶりでも再現した。
「〝都に智恵第一と称さるる上人があると聞き申した。なればそれがしは都に上り、そのお人と問答してみたいと思うた。その上で、まことに智恵勝たれたる人なれば、それがしはその人の弟子となろう。なれど、それがしが問答に勝たば、その者をそれがしの弟子とする〟と言うたのじゃよ」
如信はびっくりして夢中で話を聞いた。
親鸞は優しい言葉で続けた。
「その一部始終を見ていた祖父と仲間の弟子方は、可笑しゅうてなりませなんだ。行者はよほど己に慢心していたのであろう。こうして問答は始まったのじゃが、行者はことごとく法然殿に退けられての、直ちに法然殿を師と仰ぐようになられたのじゃ」
如信は行者の驕慢が打ち砕かれたのが面白かったのか、楽しそうに「何とも威張った行者がいたものにござりまするなあ」と言った。親鸞は話を続けた。
「話はこれからじゃが、それから三年後のこと。その行者はある時、法然殿の前に参ると、〝本国が恋しくなり申した〟と言い、鎮西へ帰ってしまわれたのじゃ。その時、法然殿は行者を見送りながらこう仰せられた。〝あの修行者は、もとどりを切らずに行ってしまわれた〟と。その上人の言葉が行者に届き引き返してこられた。そして師の申された意味を訊ねられた。その時、祖父は上人から大事なことを聞かせていただいた。
〝人から師と呼ばれる人には、三つのもとどりがありまする。それは勝他・利養・名聞にござる。この三年の間、この源空が語った文言を身に付け本国へ帰り人に教えれば、これは勝他、人より勝っていることになり申す。そして人から師と仰がれまする。これが名聞、名誉を得るということにござる。それによりて檀家が増えまする。これが利養、財を肥やすということじゃ〟。勝他・利養・名聞のこの三つのもとどりを切れと。そのとき行者は、自身の驕慢な心を懺悔した様子で、法然殿から頂いた書き物を燃やしてしまい本国に帰ったのじゃよ。しかし他にも多少の書き物が残っておったのであろう。鎮西に帰って上人の仰せと違う言論をしたことで、その在の人々は真実に出遇う妨げとなっております。誠に残念なことであり悲しいことであった。その修行者の名は祥光房(しょうこう)と言うが、その祥光房殿を法然殿の許に案内したのは、この祖父じゃった」
じっと聞いていた如信は、「勝他・利養・名聞」と何度も復唱した。その様子を見ていた親鸞は、自戒を込めて言葉を継いだ。
「法然上人からそのような大切な言葉を聞いた祖父でござるが、心の深いところで人から師と仰がれることを好む根性がござる。まことに恥ずかしきことよ。もし、この恥ずかしい祖父の口から出た言葉によって、阿弥陀如来のお慈悲に出遇う方があるとすれば、それは偏に阿弥陀仏の働きの結果でござる。皆ともに阿弥陀如来の教えを仰ぐ御同朋にござる」(以上)
覚如上人の創作ではなく、きっと元話があるはずです。浄土真宗の僧侶は、この話の内容ではなく、“三つの髻を切る”話し手として、大切にしている逸話でもあります。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます