後鳥羽院『無常講式』について、拙著『親鸞物語―泥中の蓮華』に次のようにあります。
延応元(一二三九)年、親鸞が京に帰って四年目のことであった。後鳥羽上皇は、在島十九年にして六十歳の生涯を閉じた。わずかな付き人に見守られての寂しい最期であった。しかし上皇の内面は外見に反して豊かであった。
専修念仏弾圧を行った後鳥羽上皇であったが、その後、幾度となく聖覚から専修念仏の教えを享受していた。聖覚は上皇が配流によって世の無常に落涙すると、そのひと月後、『唯信抄』を著し院の下に送った。
「すでにひとへに極楽をねがふ、かの土の教主(阿弥陀仏)を念ぜんほか、なにのゆゑか他事をまじへん。電光朝露(でんこうちょうろ)のいのち、芭蕉泡沫(ばしょううたかた)の身、わづかに一世の勤修をもちて、たちまちに五趣(しゅ)(天上・人間・餓鬼・畜生・地獄。五趣。五悪道)の古郷をはなれんとす」(『唯信抄』)
仏道には聖道門と浄土門の二門があり、浄土門こそが末法の世の衆生にかなうものであり、その浄土門にまた諸行を励んで往生を願う諸行往生と、称名念仏して往生を願う念仏往生とがある。自力の諸行では往生をとげ難い旨を示して他力の念仏往生こそ仏の本願にかなう道であり、阿弥陀仏の本願を信じ、ただ念仏一行をつとめる専修のすぐれていることを明らかにし、念仏には信心を要とすることを意を尽くし丁寧に述べたものであった。
後鳥羽院は配流の縁を得て、聖覚をはじめ浄土教の先師に導かれて、年来の雑信仰と訣別しひとりの念仏の行人として信仰の味わいを深めていった。そして上皇は隠岐島で『無常講式』を著して往生した。
「おほよそはかなきものはひとの始中終、まぼろしのごとくなる一期のすぐるほどなり。三界無常なり、いにしえよりいまだ万歳(まんざい)の人身(にんじん)あることをきかず、一生過ぎやすし。いまにありててたれか百年の形体をたもつべきや。われや先、人や先、今日ともしらず、明日ともしらず、おくれさきだつ人はもとのしづくすゑの露よりもしげし…」
その『無常講式』の最後の結びは、奇しくも専修念仏集団弾圧の原因ともなった『六時礼讃』の御文「この諸の功徳によって、願はくは命終の時に臨みて、無量寿仏の無辺の功徳身を見たてまつらん。われおよび余の信者、すでにかの仏を見たてまつりをはりて、願はくは離垢の眼を得、安楽国に往生せん」を引いてわが信心の帰する処を語っている。
上皇往生の後、洛中では後鳥羽院は聖覚を釈迦如来として拝していたという噂が立った。親鸞もその噂を聞いて「或人ユメニミラク」とその伝承を書写した『唯信抄』の紙背に記した。(以上)
浄土宗大辞典
http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E7%84%A1%E5%B8%B8%E8%AC%9B%E5%BC%8F
無常講式
むじょうこうしき/無常講式
一巻。後鳥羽上皇(隠岐法皇)撰。承久の乱に伴う隠岐配流後の著作であると考えられる。本文は三段に分けられ、初段には五道六道の苦を厭い安養の浄刹に生ずること欣い、前仏と後仏の間には阿弥陀仏の悲願に憑むむべきであると述べて世の無常を語り、二段には上皇が体験した無常を語り、三段には仏・菩薩に帰依して弥陀の名号を称えて命終に安楽国に往生することを願うことを語っている。仁和寺蔵写本は国重要文化財に指定されている。
以下は上記より転載
第二段
世こぞって蜉蝣(かげろう)の如し。朝(あした)に死し、夕べに死して別れるものの幾許(いくばく)ぞや。
或いは、昨日已に埋みて、墓の下の者に槽涙す。
或いは今夜に送らんと欲して、棺の前に別れを泣く人もあり。およそはかなきものは人の始中終、幻の如くなる一朝の過ぐる程なり。
三界無常なり。古(いにしえ)よりいまだ萬歳の人身あることいふことを聞かず、 一生過ぎやすし。今に在(あり)てて誰か百年の形體を保たん。實(まこと)に、我はさき人やさき、今日も知らず明日とも知らず。おくれ先だつ人、本の滴(しずく)、末の露(つゆ)よりも繁し。(以上)
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