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仏教ライフを考える西原祐治のブログです

親鸞聖人の時代⑫

2019年03月06日 | 親鸞聖人
親鸞聖人の時代

悪党について『岩波講座 日本歴史6 中世』「内乱期の社会変動(小泉宣右)」からの転載です。

 彼等は鎌倉末期の社会全般の矛盾の集中的表現として立ち現われてくるのであるから、極言すれば、上は庄園領主から下は農民・非農業民に至る各階層から発生している。しかして一様に悪党と呼称されている集団も、あるいは1231(寛喜三)年・1158(正嘉二)年の大飢饉により逃亡・流浪し、あるいは貨幣経済進展に対応しえず没落し悪党化したものと、新情勢に対応しつつ自己の勢力拡大につとめて支配者側と衝突し悪党と呼称されたものとに大別しうる。(以上)


鎌倉時代の「悪党」問題は、山賊・海賊・夜討・強盗といった従来の悪人ではなく、その時代が生み出していた社会問題でもありました。最近求めた『中世史講義』(高橋典幸・五味文彦編)に次のようにあります。

何故この問題を拾っているかと言えば、越後で恵信尼さまが、こうした状況の中で、土地を守り抜いたと言うことです。


 承久の乱の結果、鎌倉政権は「二千余箇所」と言われる没収地を獲得し、畿内・西国にも大量の地頭職が設置された。この結果、従来の荘園領主との間で、多くの紛争が発生したが、地頭職の任免権は鎌倉政権が掌握していたため、その裁決が荘園領主たちにとっても大きな影響力をもつこととなった。こうした状況の中、全国の土地は鎌倉政権が関与する武家領と、関与しない本所一円地とし再編されてゆく。また、朝廷の軍事力が崩壊した結杲、治安維持の面における鎌倉政権の重要性も拡犬した。特に13世紀後半以降、荘園制の動揺の中で、その権益をめぐる紛争が激化し、武力衝突も多発するようになると、それらは「悪党」問題として鎌倉政権に対処が要請されるようになり、鎌倉政権は本所一円地にも関与するようになっていった。(以上)
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