『本願寺白熱教室―お坊さんは社会で何をするのか?』(小林正弥監修、藤丸智雄編)、
お寺や仏教のポピュラーなイメージといえば、お葬式や年末の除夜の鐘、あるいは仏像などの美術品なのではないでしょうか。
他方で、社会や政治のような公共的な問題にはあまりタッチしないという印象もあります。
この本は、2013年に京都 本願寺で開催されたイベントとテーマごとの論考をまとめたものです。
テーマは「11のジレンマ」と題され、「お寺を離れて被災地の終焉活動に行くべきか」とか「どこまで宗教色を出してもいいのか」といった宗教者の実際の活動にかかわる問題から、「原発再稼働に反対声明を出すべきか」、「地域の集会やイベントに寺の施設を使っていいのか」といった、政治的・公共的な問題などが議論されています。
本の中で4月にご往生された丘山新先生が、「われら」用語の使用例について記されています。
浄上系の経典での主たるテーマは、阿弥陀如来と私たち衆生一人ひとりの関係であって、私たち人間どうしの関わりは表面には現れてこない。あえて言えば、衆生どうしの関わりは阿弥陀如来を媒介としているとしか言えない。したがって、浄土教系の宗教者の思索には、共に生きる他者への言及は稀であり、親試もまたその例外ではない。しかし、ここに引いたエピソードは、「それにもかかわらず」親鸞の意識の深層には、一貫して「衆生」への、共に生きる人々への想い、共感があったことを示している。
ちなみに、この点と関連して、一つの言葉に触れておこう。親鴬は、引用文以外、一人称主語で語る場合、基本的に一人称複数の「われら」という言葉を遣い、単数では語らない。
「煩悩成就のわれら」「煩悩具足せるわれら」「無明煩悩われらがみにみちみちて」等々と内面の煩悩の深さを省みる場合、また「流転輪廻のわれら」「五濁悪世のわれら」のように、その上うな私たちがどのような状況にあるかを語る場合、いずれも「われら」のように一人称複数の主語を用いている。そしてその「われら」とは、「よろづの衆生也、すなわちわれらなり」、「凡夫はすなわちわれらなり」とあるように、「われら」とは特定のわれわれではなく、一切衆生として語られている。
「われら」が、まさしく一切衆生であるならば、親鸞にとって、「われら」という言葉を用いたさまざまな表現は「人間の定義」に他ならない。そこからも、間接的ながら、親鸞の「同朋」意識、共に生きている他者との連帯感を読み取ることが可能であろう。(以上)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます