『インド宗教興亡史』(ちくま新書・2022/6/9・保坂俊司著)のつづきです。
二度目の悟りと梵天勧請
伝統的な出家修行者としての修行の完成者、つまりバラモン教徒としての修行完成者の状態に留まっていたゴータマ・シッダールタだったが、この自己中心の悟り状態つまりバラモン教的、修行者的な境地を脱し、自らの悟りを言語化し、他者に伝えるという困難な行動へと歩みを進めることになる。これが第二の悟り体験、つまり仏教的な悟りの完成である。
バラモン教徒の修行者としてのショダールタから、新たに仏教の開祖としての修行完成者になるストーリーの主役は、バラモン教の主神であるブラフマン(梵天)だった。
ブラフマンは、「尊い方よ。尊師は教えをお説きください。幸ある方よ、教えをお説きください。この世には生まれの良く、汚れの少ない人々がおります。彼らは教えを聞かなければ退歩しますが、法を聞けば真理を理解するものとなるでしょう」と述べ、シッダールタの意識改革を促したのであった。
ここには、仏教と他宗教の関係性構築に関する基本精神が表れている。ブラフマンは自らの意志で、悟りを開いたシッダールタの前に現れた、ということである。この点がまず注目される。ブラフマンの出現は、あくまでシッダールタ側からの要請ではない。これは、仏教の布教が、仏教の側からの発意、つまり他者への善意の押し売り的な布教ではない、ということである。
仏教は、他の世界宗教のように、布教を神からの使命、あるいは絶対的な命令とは考えていない。それはつまり、相手の都合を考えずに、一方的に押し付けるような方法をとらない、ということである。ここに仏教の他者尊重型(いわゆる平和型)伝播形式の原型が見て取れるのである。相手が必要とするときに仏教はそれに応える、という受動的な布教姿勢をもつ。
ゴータマ・シッダールタの前に現れたブラフマンは、あたかもシッダールタを神の如くみなし、彼に合掌・敬礼して、教えを説くことを懇願する、つまり勧請する。協力を請うたわけである。ブラフマンが、逡巡するショダールタに向かい、「願わくは、この不死の門を開きたまえ。世尊よ、真理を説きたまえ。真理を知る者(回目に回)もいるでしょう」という部分である。
世俗世界の主宰者ブラフマンという神自らが、ショダールタの教えを民衆に説くように要請したのである。梵天勧請の設定を経て、ついにゴータマーシ。ダールタが動き出す。
仏教の開祖へヒンドゥーの神からの懇願、働きかけに応じて、悟りの形態を変化させたのである。
その時世尊師は、梵天の要請を知り、衆生への憐みの心により、目覚めた人となって世間を見た」という文章は、完全に世俗世界への接近を決意した思想的な立場の転換、つまり世俗世界へのかかわりの積極的な心の動きを表している。それもブラフマンというインド固有の宗教の主宰者の勧請によって、シッダールタの心に民衆への哀れみ、思いやりのベクトルが生じた、というのである。サンスクリョト語の「カルナーナは、仏教の慈悲の思想の原点的存在であろう。
梵天勧請は、仏教の存在に、他者の助けや協力が不可欠であるということであり、これは後に、仏教と他宗教との関係において、大いにその有効性を発揮することになる。(以上)
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