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仏教ライフを考える西原祐治のブログです

インド宗教興亡史①

2022年07月12日 | 仏教とは?

『インド宗教興亡史』(ちくま新書・2022/6/9・保坂俊司著)を借りてきました。その中に釈尊は2度悟ったとあります。その2度目の覚りは、お悟り後の梵天勧請のことです。その部分を転載しています。

 

 

ゴータマ・シッダールタ一度目の悟り

 

 「梵天勧請」は、ブッッダの悟りの瞬間を経典にしたもので、経典の成立はやや時代が下がるとされるが、仏教の根本思想を象徴する教えとして広く普及してきた。仏教が世界展開存共栄の道を実現できた思想構造は、この教えにある。

 その原典『梵天勧請経』(パーリ語)に則って、簡単に紹介しよう。実は、この経典には、ブッダの思想が完成する過程が明確にあらわされており、さらに、後の仏教の思想的展開の原型も象徴的に表れていて、極めて興味深い内容である。

 六年に及ぶ苦行を放棄し、自らの道に歩み出たゴータマ・シッダールタは、ウルペラー樹の下で瞑想し、悟りを得る。シ″ダールタは満足感に浸り、そのまま自己完結(自死)しようとさえ思った。

 『梵天勧請経』では、「私の悟ったこの真理(法)は深く、見ることが難しく、(理解するのが)微妙で、賢者のみ感受(感得、直観)するものである」という、シッダールタの興奮冷めやらぬ言葉が、述べられている。しかも悟りを得たシッダールタは、自らの体験を客観的に言語化することの難しさを覚え、実に否定的な見解を並べる。つまり、悟りを言語化する意思がない。その理由が大変面白い。

 シッダールタは、「私か苦労してやっと到達した(悟りを)いまや説く必要がない。貪りに取りつかれた人々に、この法を悟ることは難しい。これは(世間の常識とは)逆行するもので、微妙で、深遠で見る(理解する)ことが難しく、貪りに耽り、闇に覆われた人々には、見ることができない」と深く考えて、説法することに無関心となって、説法を行おうとは思わなかったのだった。

 

 一般的に理解されているように伝統的な修行を放棄したとはいえ、シッダールタはその延長において悟りに達したのである。だからこそ、自己の悟りに満足し、布教という他者への働きかけに関心が向かなかった。それが当時の出家修行者の伝統だからである。

 この時のシッダールタは、自ら苦労して悟ったことを、「貪りに取り疲れ、闇に覆われた(煩悩の闇に取りつかれた) 一般の民衆」にわかるように語ることの意味を見出せずにいる。「(欲にまみれて、闇の世界でうごめく庶民への説法は)私には疲労が残るだけだ。煩わしさがあるだけだ」という極めて自己本位の発言は、この第一回目の悟り体験を明確に表している。悟りは自己の苦行により獲得するものという、当時の修行者の伝統に則した思想を述べたのである

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