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仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

キュア(治療)とケア(看護)

2013年12月20日 | 苦しみは成長のとびら
ケアについて村田理論と言われる見識をおもちの村田久行氏(京都ノートルダム女学院特任教授)の『援助者の援助―支持的スパービジョンの理論と実際』を図書館で借りてきました。ケアについて、次のようにあります。

キュア(cure)とケア(care)  一対人援助への2つのアプローチ
このように、苦しみというものがそのひとの投げ込まれた客観的な状況況と、その想い・願い・価値観との「ズレ」から生み出されているのであるなら、「援助」とは、この「ズレ」を小さくすることではないだろうか、そしてそれには苦しみの構造の解明から、キュア(治療)とケア(看護)という2つの援助へのアプローチが存在がすることに気がつくのである
それは

① 患者の客観的な状況を変化させ、それを主観的な想い・願い・価値観に合致させる「キュア(治療)」という援助と、

② もはや客観的状況を好転させることが不可能な場合、キュアとは逆に、患者自身の主観的な想い・願い・価値観がその客観的状況に沿うように変わるのを支える「ケア」という援助である。(以上)

緩和ケアの分野では、この苦しみの構造理解が賛同を得ているように思われます。仏教的な視点から見ると、間違いではないが苦しみの構造理解が表層的であるとおもわれます。この理解だと楽の反対概念が苦となります。一般的にはそれで良いのかも知れませんが、それでは本当の苦しみの解決にならないと仏教では説かれます。

仏教では構造は、主観と客観との差ではなく「弟子たちよ、汝の苦しみは、もとは渇愛(かつあい)である」と説かれるように喉の渇きを潤す水をもとめるように楽を欲してやまない渇愛こそが苦しみの元凶であるとします。

渇愛が苦しみの元凶であるとすれば、「楽」も苦しみの範疇のものなのです。『涅槃経』では大楽を「断諸楽」とするもの苦楽を超えたところの平安に至ることを苦しみの解決としています。(続く)
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