仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

尊いお方だと尊ぶ人が、かえって尊く思われる

2018年07月31日 | 浄土真宗とは?
東京ビハーラの会報「がん患者・家族語らいの集い通信」に、2カ月に一度、編集後記を書いています。今月号の編集後記に以下のことを書いたら、龍谷大学の教授で医師である田畑正久先生からご指摘のメールが届きました。下記の通りです。

【 編集後記 】『無憂華夫人の一生』 (山中 峯太郎著)に掲載されていた九条武子さまの逸話です。

●婦人会の活動で九州へ出張されたときのことです。門司から小倉へ、自動車で行くとき、道の両側には、多くの信者が列をなし、手に珠数をかけて礼拝しています。お供の末広唯信氏が、その純情な光景に接し、「御覧あそばせ。あんなに皆の人が拝んでおります。けれども、奥様の高いお身分や美しいお姿を、ああして拝んでいるのではありません。親鸞聖人より貴女さまへつづいています七百年の法灯に、この純真な人たちは、信仰の上から珠数をかけて拝んでいるのです。おろそかなことではございません」と、感激のあまりお伝えしました。夫人はこの時、ただ頷かれるばかりで、何のお答へもなく、やがて小倉に着きました。

●末広は、少し自分の言葉がすぎた、お機嫌にふれたのではないか、と恐縮していると、東京へ帰られた婦人から手紙が届きました。その手紙には、「九州巡回でさぞお疲れでしょう。門司から小倉への途中、自動車中でのご忠言、ありがたく聞きました。あらためてお礼を申します。私の心持は、この歌でご承知下さい」と書かれ、“むなしわれ百人千人(ももたりちたり)たたえても わがよしと思う日のあらざるに“と歌が詠まれていた。末広氏はこれを読み、ただ恐縮し、まことに御謙遜な夫人が自身を反省されることの深さと尊さに、「真に拝みたい気がしました」との思いを持った。

●「わがよしと思う日のあらざるに」という内省の深さに頭が下がります。その武子さまの歌に“この身こそ尊くあるか否(いな)あらず ぬかづく人を尊しとおもふ”とあります。わたしのことを尊いと思う、その心こそ尊いという歌です。武子さまは、また“ぬかづく人を尊しとおもふ”ご自身の思いを尊いと感じておられたに違いない。『蓮如上人御一代記聞書』に「御たすけありたるありがたさありがたさと思ふこころをよろこびて南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と申すばかりなり」とあります。阿弥陀さまは、わたしの身の上に、「南無阿弥陀仏」や「ありがたさと思ふこころ」となって至り届いているのでしょう。

*九条 武子(1887~1928年)本願寺21代明如上人の次女。現・京都女子学園、京都女子大学を設立、大正大震災による負傷者・孤児の救援活動(「あそか病院」などの設立)などさまざまな事業を推進した。(西原)


届いたメール

いつも、「がん患者・家族の語らいの会通信」を読ませていただいています。時々実践真宗学研究科の院生と一緒に読ませていただいています。ありがとうございます。
8月4日の編集後記を読み、以下のことを思い出しました。シャカに説法でしょうが。

蓮如上人の「御一代記聞書」(二五一)には、上人のお弟子の法敬坊の言葉が伝えられています。
「法敬申され候う。とうとぶ人よりとうとがる人ぞとうとかりける、と。」 (法敬坊が「尊いお方であると尊ばれる人よりは、尊いお方だと尊ぶ人が、かえって尊く思われる) と申されたところが、蓮如上人が 「面白きことをいうよ、もつとものことを申され候う」 (おもしろいことをいうたものである。いかにも道理のあることを、法敬坊は申された)
田畑正久
コメント
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