仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

一輪の朝顔

2018年07月21日 | 日記
昨日の続きです。『みちしるべ 正しい念い』(中島教之)に、千利休は豊臣秀吉の逸話にある「一輪の朝顔」が紹介されていました。

話の筋は、利休がその庭に咲き誇った朝顔が見事なので、秀吉を「朝顔を眺めながらの茶会」に誘う。秀吉は「利休が誘うほどだから、さぞかし見事な朝顔であろう」と期待し訪ねると、朝顔は全てその花を切られていて、一輪だけ、茶室に朝顔が飾られていた。これを見て、秀吉は利休の美学に感嘆したという話です。

この逸話は何を語っているか。諸説があるようです。

「朝顔の中の、一番見事な花を飾った」「秀吉の黄金の茶など絢爛豪華好みに対して、これ以上は削りようのない、侘びの世界を示した」などなど。

中島教之氏は、次のようにあります。

それにしても、利休はなぜ朝顔の花を摘みとったのでしょうか。
 あなたは今まさに太閤と呼ばれる天下人ですが、それは幾万の花の命を摘み取ったあげく咲かせた一輪の花なのです。しかし、その朝顔の花も夕べにはしぼんでしまいます。人の世の栄耀栄華もまた「おごれる大も久しからず、ただ舂の世の夢のごとし」(『平家物語巳です。
 太閤殿下よ、今を時めくあなたもまたこの理をのがれることは出来ないのです。そんな人の世の真実を謙虚に朝顔にたずねてみてはいかがですか。
 朝顔の花一輪にたくして利休が秀吉につたえたかったことは、あるいはそんなことだったのかも知れません。(以上)

私は、利休は秀吉に、佗茶の精神を見せて、「これがあなたに分かりますか」と迫ったように思われます。精神の指向の優位性を示し、絢爛豪華好み秀吉には忸怩たる念いを持ったに違いあれません。
コメント
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